87歳のヒーローあらわる!『もう年はとれない』
いわゆる団塊の世代が定年を迎え始めたころ、これからは老人の、老人による、老人のためのエンターテインメントがどんどん市場に出てくるだろうね、とエイブラハム・リンカーンのようなことを考えた。実際そのとおりになっているのだが、高齢者を枯れた存在として棚上げせず、生々しい肉体を供えた人間として登場させる作品が増えることは、小説の幅を広げる意味でも歓迎である。最近では文庫書き下ろし形式の時代小説が1ジャンルとして定着した観がある。その流行の背景に私は、かつて少年マガジンを読んで劇画に胸を熱くした世代が自分たちのヒーロー・ストーリーを求めてたどりついた、という側面があるんじゃないかと思うのである。読者層データは調べてないが、どうですかね。
さて、今回お薦めしたいのはダニエル・フリードマン『もう年はとれない』(創元推理文庫)だ。主人公のバルーク(バック)・シャッツは御年87歳で、小説の中で誕生日を迎える。日本でいうと米寿である。彼は元テネシー州・メンフィス署殺人課の刑事であった。
ある日バックは臨終を迎えたかつての戦友ジム・ウォレスから、とんでもない告白をされる。かつて捕虜収容所でバックを痛めつけ、ユダヤ人を虐待したナチの親衛隊員、ハインリヒ・ジーグラーが生きているというのだ。当時憲兵だったウォレスは、ジーグラーから金ののべ棒を貰って見逃した。そのジーグラーをアメリカ国内で見たのだという。
ウォレスの死後、バックの周囲はにわかに騒がしくなる。ジーグラーはナチの略奪財宝を持って逃亡していた。バックがそれを奪回に行くのだと思い込んだ連中が彼の周囲に群がり始め、穏やかな日々が送れなくなる。ナチの逃亡者を見過ごしにするわけにもいかず、地元の警察やイスラエルの当局にも連絡をとったバックだったが、老いぼれと侮られたのか、思うようには動いてもらえない。そうこうするうちに関係者の一人が殺害される事件が起き、バックはやむなく重い腰を上げることになるのである。
バックのキャラクター造形がなんといっても素晴らしい。彼は第二次世界大戦でノルマンディー上陸作戦に参加した折、兵士達を激励にきたドワイト・D・アイゼンハワー将軍(後の第34代アメリカ大統領)に生きてまた妻に会うためにはどうしたらいいかと訊ねた。死地に赴く兵士にアイゼンハワーが贈った言葉は以下の通りである。
「兵士よ。しがみつくものがなくなったときには、きみの銃をしっかりと握っておけ」
これがバックの座右の銘になった。殺人課刑事時代も同様で、彼は銃を決して手放すことはなかった。その徹底ぶりは映画「ダーティ・ハリー」撮影に当たって、ドン・シーゲル監督が電話で質問をしてきたくらいである(このエピソードからバックに、「グラン・トリノ」のクリント・イーストウッドを重ねる読者も多いと思われる。イーストウッドよりもバックは第二次世界大戦に行った分、ちょっとだけお兄ちゃんだ)。そのような過去がありながらも、現在のバックの肉体は老いのために衰えており、記憶力にも自信がなくなっている。そうしたハンディキャップをバックは、皮肉とへらず口で乗り越えようとするのである。彼の嘆かわしいユーモアが光り輝く瞬間も後半にはある。
老人探偵の小説というとL・A・モース『オールド・ディック』(ハヤカワ・ミステリ文庫)があるが、あの小説がレイモンド・チャンドラーの某作品を見事に換骨奪胎したパロディであったのと同じように、本書も一筋縄ではいかないプロットを備えている。過去の亡霊のように甦ったナチを追うという前半の筋立てはフレデリック・フォーサイス『オデッサ・ファイル』(角川文庫)も思い起こさせる。私立探偵+ナチという趣向かと思いきや、プロットは途中から斜め二十度ぐらいの方向にずれ始めるのである。驚くべきことに、犯人当て小説の興趣まである。定石を少しずつ裏切るオフビートな展開は実に魅力的だ。
バックは孫のテキーラ(ウィリアム・テカムセ・シャッツが本名だが、なぜかそんなあだ名)と行動をともにする。つまり相棒小説の性格もあり、テキーラとの世代を超えた口喧嘩も読みどころの一つである。おもしろいのはこの若者がときどき、作者の代弁者のようにプロットのずれを指摘するような発言をすることだ。
—-「この女の正体はわかってる」彼は言いつのった。「黒後家蜘蛛。妖婦。こういう話にはいつだって彼女みたいな女が出てくるんだ」
こういう遊びもたいへんにおもしろい。テキーラは、若いころのウディ・アレンにやらせたらさぞかしはまり役だったろうと思う。本書は〈ハリー・ポッター〉シリーズを手がけたプロデューサー、ライオネル・ウィグラムによって映画化される予定があるとのことで、バックやテキーラなどの配役がどうなるかにも関心がある。さすがにバックはイーストウッドじゃないだろうけどね。
(杉江松恋)
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