社会の多様性についてみんなが間違えていること(メカAG)
今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
社会の多様性についてみんなが間違えていること(メカAG)
社会の多様性は大事。すべての人々の考えが同じになってしまったら、その社会はすごく脆弱になり、文化・文明の発展も停滞してしまうだろう。でもね、なんか多様性について勘違いしている人が多い。
多様性は大事だがから、ちっと変わった人も社会から弾き出さず、社会の中で生きられるようにしましょう、弱者を保護しましょう、と。多様性は大事なんだが、多様性って保護されるものなのだろうか。
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生物は海の中で生まれ、陸上で大きく進化した。なぜ海の中では人間のような高等生物が生まれなかったのか。海の中では環境が安定しすぎて「試練」が足りなかったという考えがある。なんとなく泳ぎまわって、口に入ってくるプランクトンや小さな魚を食べていれば生きられる。まあ当の魚にとっては、そんな楽でもないんだろうけど(苦笑)、千変万化な陸上の世界に比べれば、安定して変化が少ない気がする。
共産主義国家は平等を目指した。資本家の搾取を否定し、競争を否定し、すべての人間が平等に生産・消費する世界。かつてあった共産主義国家ソ連の問題は、共産主義の本質的なものではなく、運用の仕方にあるという考えもある。でもだとしても、その修正機能が働かなかったのは、やはりそこに本質的な問題が絡んでいるのではなかろうか。
生きるのに環境が良すぎると、多様性は失われてしまう。多様性の維持には生存競争が必要。でも、生存競争に勝った生物だけが生き残るなら、それはそれで多様性が失われてしまうのではないか。多様性は保護すべきものなのか、競わせるべきものなのか?
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多様性というのは保護すべきものではなく、生み出すものだ。絶え間なく新たな多様性を生み出し続ける環境が大事。生存競争によって失われていく一方で、常に新たな多様性を生み出し続ける環境。
変わった人間、弱者を社会は保護すべきか?生存競争の土俵へあがるチャンスは与えるべきだし、そのために必要な保護もあるだろう。しかしあくまでそれは生存競争させるための保護なのであって、生き残らせるための保護ではない。むしろ変わった人間、弱者を次々に生み出す仕組みの方が大事。「死なせるために生むのか?」なんて抗議が来そうだけど、生物とはそういうものだ。死ぬために生まれるのだ。
人々が「社会の多様性」について語る時、この点を勘違いしていると思うんだよね。保護すべきは変人(人間)そのものではなく、変人を生み出す環境の方。多様性とヒューマニズム(弱者をいたわろう)は違う。弱者を絶え間なく生み出し、絶え間なく生存競争に敗北させる…それが多様性。多様性というのは残酷なのだ。そもそも生物の宿命が残酷。
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ところがヒューマニズムあふれる心優しい人々は、環境の方を平等にしようとする。みんな同じ環境、同じ条件、不公平のない世界…。同じ環境で違ったものが生み出されるだろうか?
平等で公平が好きな人が多い。でも平等で公平というのは、すべての地域を何もかも同じにしてしまうことではないのか。地域によって格差があるから不公平だという。職場によって労働条件が違うから不公平だという。
でも同じにしてしまったら、変わった人は、どの世界でも不利なんだよね。ある地域で勝てない人は、別の地域でも勝てない。それでも生き残らせようとすると、一方的に保護するしかない。保護というのは敗者になる可能性と同時に、勝者になるチャンスを奪うこと。
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なんかネットの世界では最近は「旅」ブームのようだ。世界には日本とは違うさまざまな価値観をもった社会が存在する、多様性万歳!と。
まあ別にいいんだけど、なんか昭和の頃に流行ったテレビ番組(「素晴らしい世界旅行」とか)を思い出してしまう。まだ世界が珍しかった頃。1960年代頃までは、まだ日本は海外旅行が自由にできなかったんだよね。なんかいろいろなかたちで規制されていた。それが1970年代を経て1980年代にはバブルもあって一般的になった。
ここでなぜいままた「旅」なのか。単なる観光ということではなく、その地域の生活を肌で感じようという方向性の違いはあるかもしれない。でもなんかおかしいよね。国内では環境の多様性を否定してしまったから、それを海外に求めているような。
1960年代に「新日本紀行」というテレビ番組があった。国内のさまざまな地域の生活を紹介する番組。長寿番組で1970年代まで続いた。その頃は日本国内にまだ紹介すべき多様性が残っていたということだろう。国内では多様性を否定し、世界に多様性を求める…どうなんでしょうね。
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多様性の維持というのは人間を保護することじゃない。多用な環境を維持すること。多用な環境がさまざまな人間を生み出し、結果的に人間の多様性が生まれる。「不公平」でなければならないのだ。不公平だからこそ、変人・弱者が生き残り勝者となるチャンスがある。
こういう考えは、「平等」が好きな人たちには難しいのだろうね。困ったものだ。まあ世界の歴史も「統一」→「挫折」の繰り返しなわけで(世界中をキリスト教で統一しようとしたり)、日本国内の場合、挫折しなかったのが失敗。なぜ挫折しなかったのだろうか?
ストレスが足りなかったのかもしれない。コンピュータの世界でさまざまなアーキテクチャやプログラミング言語が作られ続けるのは、それだけ求めるものが過酷だからだと思うだよね。1つのアーキテクチャ、1つのプログラミング言語では満たせない。もしそれほど求めるものが過酷でなければ、1つのプログラミング言語でもなんとかなっているだろう。
日本は高度経済成長とバブルによって、環境が良すぎた。海の中の世界のように。一つのアーキテクチャで成功しすぎたというか…。日本は唯一成功した共産主義国家だと、よく皮肉られる。でも景気が悪くなっても均一化の流れは変わってない気がする。ちょっとまえに地方政党ブームがあったけど、あれが地方の反乱の限界なんですかね…。
弱者を保護しても多様性は生まれない。これだけは確実なんだけどね…。保護ではなくストレスが必要。戦国時代のようにストレスに満ちた社会こそが弱者・変人にもチャンスがある。「みんな仲良く助け合い」じゃ多様性は生まれないよ。「10代のわけがわからない焦燥感」のような殺伐とした世界から多様性は生まれる。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年08月31日時点のものです。
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