【映画】『アイ・アム・レジェンド』に関する衝撃の事実

Badlands 映画・演劇・音楽レビュー

こちらの記事はネタバレの部分を含みます。今回は映画『アイ・アム・レジェンド』のアナザー・エンディングについて、ぼのぼのさんのブログ『Badlands 映画・演劇・音楽レビュー』からご寄稿いただきました。

【映画】『アイ・アム・レジェンド』に関する衝撃の事実
この文章はウィル・スミス主演のSFサスペンス『アイ・アム・レジェンド』のラストに関する話である。未見の方は基本的に読まない方が良いと思うが、それなりに興味深い内容なので、今後特に見る予定がないのであれば、読んでしまっても構わないのではないかと思う。

昨日、たまたま『アイ・アム・レジェンド』にアナザー・エンディングがあることを知り、その映像をYouTubeで実際に見て愕然(がくぜん)とした。

これ、いくら何でも違いすぎだろう。

エンディングに複数のヴァージョンがある映画はさほど珍しいわけではない。たとえば『アイ・アム・レジェンド』とよく似た作品である『28日後…』にも複数のエンディングがあって、僕が見たときは、最初に公式のエンディングが流され、エンドロールの後にアナザー・エンディングが流されるという上映形態が取られていた。しかしそれらはハッピーエンドとアンハッピーエンドの違いこそあるものの、決して作品のテーマや世界観を覆すほどの違いではなかった。

ところが『アイ・アム・レジェンド』のエンディングは、作品のテーマを根本から引っ繰り返してしまう、ありえないほど違うものなのだ。

映画のあらすじを書いておこう。未知のウイルス感染によって人類のほとんどがダークシーカーズ(ゾンビと吸血鬼の合いの子のようなもの)に変化してしまう。何故か免疫を持っていたウィル・スミスは、ダークシーカーズの襲撃をかわしながら、ニューヨークでただ一人サヴァイヴァルを続けている。科学者である彼は、ダークシーカーズを人間に戻す血清を研究しながら、他の生き残りに連絡を取ろうとするが……というものだ。

そして劇場公開版のラストは、ウィル・スミスがついに血清を開発したものの、隠れ家をダークシーカーズに襲われ絶体絶命。途中で知り合った女性と子供に血清を託し、自らは二人を逃がすためにダークシーカーズを道連れに自爆。血清は無事生き残った人間たちの手に渡り、ウィル・スミスは「人類を救った伝説の男」になりました……というものだ。

ところが、これは本来のエンディングではなく、公開1か月前のモニターテストの結果、急遽(きゅうきょ)追加撮影されて差し替えられたヴァージョンだというのだ。

本来のエンディングは、それまでの物語を180度覆すような内容だ。ウィル・スミスが血清開発用の実験台として捕えてきた女ダークシーカーは、実はダークシーカーズのボスらしき男の恋人(またはそれに類する存在)だった。ボスは、自分たち新人類を別の生き物に改造しようとするウィル・スミスの魔の手から恋人を取り戻すため、罠(わな)を仕掛けたりして、スミスを執拗(しつよう)に付けねらっていたのだ。ようやくそれに気づいたスミスは、女をボスのもとに返し、解毒注射(?)を打つ。そして一言「I’m sorry.」

つまり本来の『アイ・アム・レジェンド』において、ウィル・スミスは「人類を救った伝説の男」などではなく、新人類であるダークシーカー側から見て「人々を何人も殺害し、挙げ句の果てには自分たちを別の生き物に改造しようとした伝説の悪鬼」だったのだ。

お~~~~~~~~~~~~~~い、それはいくら何でも違いすぎだろう! !

確かに劇場で見たときも、終盤が妙に早急で、広げた風呂敷(ふろしき)を大急ぎで畳んだような感じは受けた。そしてタイトルにもかすかな違和感を覚えた。あのラストなら、タイトルは『ヒー・イズ・レジェンド』ではないのか、それが何故『アイ・アム・レジェンド』なのか?と思ったのだ。この本来のラストを知って、その謎(なぞ)が氷解した。ウィル・スミスは生きているのだから『アイ・アム・レジェンド』でいいのだ。しかもそれは決して「オレ様は世界を救った男」などという晴れがましい代物ではなく、前述のような苦々しさに満ちた言葉だったのだ。

劇場で見た『アイ・アム・レジェンド』は、ゾンビものの変形、化け物相手のサヴァイヴァルサスペンスとして、予想以上に面白い映画だった。しかしあくまでも娯楽作品としてなかなか面白かったというレヴェルで、それ以上の感動が残ったわけではない。しかしこのラストなら、話はまるで違ってくる。本来の『アイ・アム・レジェンド』において、人類を救うはずのヒーローは、実は新しい世界の秩序を乱し、新人類の愛を奪い去る邪悪な存在だったのだ。

SFであれアクションであれ、2001年以降にアメリカで作られる「都市崩壊映画」は、どうあがいたところで確実に911の影を背負うことになる。その状況下でこのラストを提示することは、アメリカ人に対して「そもそも我々は、911を初めとするテロ戦争において本当に被害者だったのか?」という、最も触れられたくない疑問を突きつけるのに等しい。ダークシーカーズを無知蒙昧(むちもうまい)な人種と決めつけ、罪の意識など一片も持たぬまま実験動物として使用。怒り狂って仲間を取り戻しに来たダークシーカーズに「君たちは病気なんだ。僕なら助けることが出来る。君たちみんなを救うことが出来るんだ」と繰り返し叫ぶウィル・スミスの姿は、自由と民主主義の名の下に、諸外国に軍事介入を続けるアメリカの姿そのものではないか。

だからこそ、このラストは却下されてしまったのだろう。

しかし…それにしても…そこまで変えるか? いくら何でも変えて良いものと悪いものがあるだろう。ハリウッド映画の世界で、作品のメッセージが20度や 30度変わるのは仕方ない。しかしこれでは20度や30度ではなく180度、まったくの正反対ではないか。

調べたところ、リチャード・マシスンの原作小説は、まさしく価値観の逆転をテーマにしたものだそうだ。ラストで主人公は吸血鬼たちに捕まって処刑されるが、その時初めて、自分が吸血鬼たちから伝説の悪魔として恐れられていたことを知る…という内容らしい。

しかし以前にチャールトン・ヘストン主演で映画化された『地球最後の男 オメガマン』は、今回の『アイ・アム・レジェンド』と同じく、主人公が血清を開発した後、伝説の男として英雄的に死んでいくという脚色がなされているらしい。『アイ・アム・レジェンド』は、テーマ的にはマシスンの原作に近いものを作ろうとしたものの、最終的にはスタジオの圧力で『地球最後の男 オメガマン』の方に引き戻されてしまったというわけだ。

この一件で、映画というのがいかにいい加減な芸術であるかを、あらためて思い知らされた。そして、少なくともハリウッド映画においては、ある程度製作の舞台裏を知らないと、その作品が本当は何を描こうとしたのかも、ろくに分からないのではないかという気さえしてきた。最近のDVDに本編をしのぐほど長い特典映像やオーディオコメンタリーが付いているのには、ビジネス上の理由だけでなく、芸術上の免罪符的な意味もあるのではなかろうか。ちなみにこのアナザー・エンディングは、『アイ・アム・レジェンド』のDVDに特典映像として収録されているそうだ。

現在DVDで見られる様々な映画のヴァージョン違いを検証し、その変更はどのような事情で行われたのか、その結果映画のメッセージはどのように変化したのかなどを、『ハリウッド 免罪符の歴史』とでもいう本にまとめたら、さぞかし面白いことだろう。それでも『アイ・アム・レジェンド』ほど極端な改変は少ないと思うが。

執筆: この記事はぼのぼのさんのブログ『Badlands 映画・演劇・音楽レビュー』からご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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