インターネットは都市部と地方の格差を縮めたか

インターネットは都市部と地方の格差を縮めたか

今回はgudachanさんのブログ『グダちゃん日報』からご寄稿いただきました。

インターネットは都市部と地方の格差を縮めたか

まずはじめに『ギャルと不思議ちゃん論』などの著作で知られるライターの松谷 創一郎さんの興味深いツイートを引用する。

Soichiro MATSUTANI@TRiCKPuSH

インターネット以降の地方には住んでないのだけど、最近感じているのは、東京人と地方人との情報格差。ネットというインフラがあるので昔より情報格差は縮小すると想定されるが、逆に相対的には広がっているように感じる。あるいは、情報が分断して流通しているように感じる。

2013年06月28日
https://twitter.com/TRiCKPuSH/statuses/350456561048629248

「インターネットがあれば都市部も地方も関係ない」と言う話はよく言われている。amazon.jpをはじめECは全国どこでも同じ在庫をそろえている。テレビ番組のように「都会では放送されても田舎では放送されない(またはものすごく送れて放送される)」こともない。「東京と同じ」であることはおろか世界中の最先端の情報と、膨大な商品がインターネットによって得ることができる。どこに住んでいてもSNSで情報発信・受信・共有ができる・・・・

しかし、それは理想であり、現実問題として都市部と地方の「インターネット格差」は存在していると思う。

都道府県別のIT・情報・通信に関する普及率*1のランキングをみると、パソコンや携帯電話といったデバイスの普及率も、ソーシャルメディア・ECといった中身の利用率も、圧倒的に東京神奈川の方が高く、青森県など地方の田舎の県ほど低い。ネット社会は確実に都市部の方が進んでいる。

*1:「IT・情報・通信」 『都道府県別統計とランキングで見る県民性』
http://todo-ran.com/t/categ/10044

自分が大学に入って知り合ったとある地方県の県庁所在地出身の友人によれば、「高校時代(2007年以前)に地元ではYoutubeを知っている同級生は誰もいなかった」そうだった。TwitterやFacebookはおろか、彼は上京後にmixiを知り、加入したのだという。

これには本当に驚いた。神奈川県の湘南であれば、みんな高校時代にSNSや動画サイトを楽しんでいたのだから。(でもよく考えたらmixiはアウトだよね)しかし地方だと、県庁所在地ですら、そのレベルである。

大学ではメディアを学んでいたので、携帯電話の普及実態などを同級生から聞く機会もあったのだけど、地方っ子に多かったのは「高校時代にはじめて携帯電話を持った」ケースである。これもおかしかった。首都圏ならば、小学生から持つのが一般的だ。現に自分は小学校5年で携帯電話を持っていた。ブロードバンドおよびパソコンが「一家に一台(一人一台ではない)」で一般家庭に普及したのは遅くとも2000年代初頭だろうが、地方だと10年くらい遅れているという。しかもいまだに一家全員で同じパソコンを共有するスタイルが主流と見受けられる。

地方と都市部には深刻な情報環境の格差がある。

それが、「ネット社会の分断」をまねている所もある。地方のTwitterユーザのプロフィール画像を見ると、多くは一様にプリクラ写真なのだが、これはガラケー型のネット文化の名残だと見受けられる。プロフ文章の体裁も、ツイートの文法や内容も、まるでフォーマットがあってそれに沿っているかのように画一的で、「地方の国道沿いの全国チェーン街のように」没個性なのだ。

2008年の日系BPの記事によると*2、PC型のネット文化を中心に発展したmixiとガラケーを基本としたGREEではユーザ層に地域格差があると言う。mixiは首都圏ほど、GREEは地方ほど普及しているという。ガラケーSNS「モバゲータウン」の地元の友達サークル数は地方ほど突出しており、記事はさらに”一部のケータイSNSにて提供されているタウン情報系のコンテンツにおいても、首都圏での書き込みは人口の割に多くないのに対し、地方都市の書き込みは非常に充実しているという傾向を見ることができた”としている。記事は以下のように結んでいる。”携帯サイトの世界においては、地方に住んでいるユーザーが積極的にコミュニティを利用し、情報発信を行っているということだ。テレビや雑誌、PCのインターネットでは首都圏を中心とした情報が主となっているが、ケータイはむしろ地方のユーザーが牽引役になっている”

*2:「「携帯フィルタリング」の波紋 【第4章】地方の若者を救うケータイ」 2008年05月07日 『ITpro』
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080501/300300/

ITジャーナリストの佐々木俊尚氏は「ケータイ小説」についてのネット記事で次のように論説している。

宮部みゆきさんのベストセラー小説と人気ケータイ小説の売れ行きを、都道府県別に調査したことがある。詳しい数字は手元にないので不明だが、関係者から私が聞いたところでは、宮部さんの小説は東京や大阪、名古屋などの都市部に売れ行きが著しく偏っていたのに対し、ケータイ小説はほぼ人口分布にそって、全国にまんべんなく売れていたという。

(中略)

都市部の若者では情報源の第1位がインターネットになっているのに対し、地方の若者ではいまも情報源の第1位はテレビだという調査データもある。こうした数字から明らかになっているのは、都市と地方では同じ世代であってもまったく別の文化が形成されているということだ。つまりはロードサイド文化である。

出典「ケータイ小説に見る「大きな物語」の復権と郊外文化」 2009年05月06日 『総合図書大目録』
http://www.sogotosho.daimokuroku.com/?index=katuji&date=20090506

ケータイ小説とは、ドラマや映画にもなった「恋空」(2005年執筆開始)をはじめとする、携帯サイト上で発表された小説のこと。多くはロードサイド化した郊外地域を舞台とする、少女漫画的な恋愛の悲喜劇で、「携帯的な言葉遣い」で書かれている。2000年代中期にブームになったものだ。

ブーム当時は、書店に「ケータイ小説コーナー」があったりしたものだが、最近はぱったりと見なくなっている。しかし、日経トレンディの2011年の記事では”都市部を離れ、郊外や地方にあるロードサイドの書店に足を運んでみると、必ずといっていい程ケータイ小説のコーナーが設置されており、単行本や文庫本が豊富に並べられているという光景を目にする*3″としている。これは事実だ。首都圏ならば、小さな駅前や住宅街の中小規模の書店はおろか、ジュンク堂や有隣堂などのターミナル駅前にある大型書店でさえもケータイ小説コーナーはわずかにしかないが、地方の県にいくと、国道沿いの宮脇書店のような小規模書店に、棚の端から端までケータイ小説が並んでいる。多種多様の充実がある。福島県や三重県がそうだった。日経トレンディの記事によると、女子中高生の間で市場として確立しており学校の始業前の読書の時間などに活用されているらしい。

*3:「ブームから数年、「ケータイ小説」は今どうなっている?」 2011年04月27日 『日経トレンディネット』
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110426/1035339/?P=1&rt=nocnt

なんにせよ、地方はガラケー文化と親和性が高いのである。

都市部であれば、小学生でもパソコンや携帯電話が使える。いまではスマートフォンの時代ではあるが、どう考えてもパソコンの方がガラケーよりもはるかにできることは多い。画面も大きいし、ウェブサイトのクオリティや閲覧できるサイトの数も多い。パソコンで見ればただで読める新聞社の無料のニュース記事が、ガラケーだと有料会員にならないと読めなかったりするし、昔は「着メロ」というたかがMIDI音源レベルの音楽に都度課金を行う阿漕な商売もあった。(むろん、自分でMIDIで制作すればタダで同じものが再現できる)

しかし地方では、パソコンでインターネットをする最初のきっかけが「学校の情報の時間」ということが多いという。地方出身の友人によれば「子どもの親にホワイトカラーが少ないことが原因」という。彼は公務員の家庭の育ちだったために家にパソコンがあったが、そうではない場合は、情報環境に著しい格差があるという。すると若者が「ネットに接続する初めてのデバイス」はガラケーになる。

前述の、田舎の若者SNSユーザはプロフィールにやたらプリクラが多いというのも、地方のロードサイド文化であろう。国道沿いに全国チェーンの氾濫している今の地方都市では、若者がレジャースポットがわりに「ラウンドワン」や「イオンモール」を利用すると言う。そういう大型施設はプリクラコーナーがある。そうやって「プリクラ遊び」を右ならえで頻繁にするようになり、それがプロフィール画像に表れているのではないか。昔流行ったガラケー文化の代名詞の「前略プロフィール」からの流れの名残が地方の若者のSNSアカウントには見受けられる。そうやってケータイ小説の世界のような身の回りの出来事を、ケータイ小説の文法で発信し続けるのが地方の無数のSNSユーザたちである。

地方の若者の利用するSNSのつながりは「同級生単位」である。つまりは、趣味縁とか、多様な外向きのつながりのための活用ではなく、クラスの同級生とのつながりを電子空間に拡張するのが地方のガラケー型の中高生や若者ネット利用の特徴である。彼らのツイッターのフォロワーはほとんどすべてが高校や中学時代以前の同級生である。彼らにとっては「インターネットで見る世界」はすべてが、地元の生活空間と同一なのである。

都会に行けば山ほどさまざまな文化があり、いろんな生活様式があっていろんな人がいて、さらに、日本を飛び出せば、世界中には無数の多様性があるのだけど、そういうことを知る術としてのインターネットというものは地方にはありえないのだ。いわゆるファスト風土化*4によって徹底的に無機質化し、北海道から南日本まで同じ全国チェーンだらけ、同じような味気ないニュータウン郊外住宅地だらけになり、多摩地区や港北をもっとずっと単調で劣化させたようなライフスタイルが「地方の標準形」になっている。地域性の違いなんてなく、「地方人」であればだれもが、同じような同級生と、イオンを筆頭とした同じような店の並ぶ地元の国道沿いと、同じ「ガラケー的なネット空間」に篭りっぱなしになるのである。まるでベルトコンベアの上を流れる大量生産される工業製品のように変わり映えがしないのだ。

*4:「ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y) [新書]」 三浦 展(著) 『amazon』
http://www.amazon.co.jp/dp/4896918479

地方でもamazon.jpなどのECを使いこなしたり、PC型のインターネット文化に長けている若者は中にはいるが、いたとしてその多くはいわゆる「オタク層」なのだという。ナードとかギークと呼ばれるような階層である。彼らは地方の「ヤンキー至上主義」的なヒエラルキーでは最下層に属すため、「地方の若者社会」からは迫害される傾向にある。だから、いつまでたっても、いくら地方がデバイスの普及が後進的だとしてもスマートフォンが急速にシェアを拡大しているこの現在であっても情報環境は「ガラケー的な画一的な閉鎖環境」から抜け出せていない。スマートフォン界での空前のLINEブームは余計にそれを助長させているのではないだろうか。(余談だが不思議なことに地方在住・出身の若者はSkypeを使うユーザは殆どいないがLINEユーザはうようよいる。世界的にはSkypeの方がシェアは高いのだけど・・・)

その一方で、首都圏ではPC型ネット文化をベースとして、スマートフォンやタブレットなどの多様なデバイスを使いわける形で、SNSと都市文化が密接にリンクし、デジタル時代の新たな文化やライフスタイルがどんどん洗練性を高めている。

都市と地方の格差をインターネットが「縮めた」ようには到底思えない。

地方はいまだに「ガラケー的なネット文化」が幅を利かせ、前述の佐々木俊尚氏のいうようにテレビ民放局などのレガシーメディアも強い。「テレビがつまらなくなった」と言われて久しく、昔に比べテレビを見る機会は都市部の若者の間では減り、テレビ局の「ゴリ押し」への敬遠意識も高まっている。いわゆる「若者のテレビ離れ」である。しかし地方ではそうではない。地方に住むいとこや、大学の地方出身の同級生はまるでテレビの話題しかしなかった。フジテレビなどの番組はどんなにくだらなくても見て楽しみ、「テレビがゴリ押ししたトレンド」には徹底的に染まっているのだ。実際博報堂の2005年からおこなっているメディア定点観測*5では、東京地区では毎年ネットの台頭とテレビ雑誌ラジオなどのレガシーメディアの接触頻度や地位の低迷が進んでいるのに対し(特に若者層で)、高知地区ではネットの普及が東京・大阪に比べるといつまでも進まず、レガシーメディアの影響力は横ばいなのである。つまり地方はいまだ、昭和型のマスメディア全盛時代の情報環境に生きているのだ。

*5:「メディア定点調査」 『メディア環境研究所』
http://www.media-kankyo.jp/news/media/

そんな彼らがソファーでテレビを見ながらガラケーを操作して番組を見た感想をガラケーサイトに書き込んでいる光景は容易に想像できる。それが多くの地方の若者の実情だろう。そんな環境で「都市部と同一のインターネット利用」をしたとして、かなり浮くだけである。

インターネットは都市部と地方の格差をむしろ拡大させている。

都市部と地方で「まったく異なる情報環境」を築いている。そして、生活環境も激変している。「駅前の商業地帯中心の社会」は都市部では今も当たり前で、毎日朝夕の通勤通学ラッシュがある。鉄道が直通運転を進めるほどターミナル駅は賑わい、suicaやpasmoの普及も手伝って「駅ナカ」も一般化している。しかし地方は県庁所在地だろうと駅前から百貨店が姿を消し、商店街はシャッター化。夕方の買い物どきや休日ですら市街地はガラガラで、駅ナカは一生できそうにない。suicaの使えるコンビニもまず存在していない。

そして、街外れの空き地にできた超巨大のイオンが繁栄している。クルマがないと生活しようがないから自家用車はもはや一家に一台ではなく「一人一台」の世界だ。都市部なら維持費もかかって仕方が無いためそんなことはお金持ちでしかできないのだけど、土地の余った地方ではクルマをたくさん収容するガレージもある。むろん「若者のクルマ離れ」も地方ではありえないことだ。ペーパードライバーや免許のない若者は首都圏には大勢いるが、地方であれば「社会不適合者」の烙印を押されてしまう。

首都圏育ちの若者が、祖父母の墓参りや旅行などで地方に行くと、この「超巨大イオン」のスケールに度肝を抜かすのだ。そこのフードコートでは、ガラケーを広げる若者が大勢居て、彼らはケータイ小説的な人生に生きていて、中にはもしかするとケータイ小説の原作者がその様子を観察していて、ここを舞台とした小説を執筆・発表し、全国の似たり寄ったりの田舎の人間がそれを楽しみにしているのかもしれない。

地方と都市部は同じ日本なのに「別の国」になっているのだ。その格差をどうやって縮めることができようか?

執筆: この記事はgudachanさんのブログ『グダちゃん日報』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年07月04日時点のものです。

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