幻の古典 ドゥーセ『スミルノ博士の日記』がまさかの復刊!
ファンの間では名のみ高くて、その実読んだ者は少ない、という作品がある。
スウェーデンの作家、サミュエル・アウグスト・ドゥーセが1917年に著した長篇『スミルノ博士の日記』はその代表格だろう。読んだ者が少ないのは翻訳が1963年に東都書房刊〈世界推理小説大系〉の1冊として出たきりで、その後は復刊もされていないためだ。ただし日本にミステリー文化を根付かせた最大の功労者・江戸川乱歩は、おなじみ「類別トリック集成」(光文社文庫『続・幻影城』所収)などで複数回触れている。先輩である小酒井不木から本を譲ってもらって読んでいたらしいのだ。乱歩が、ドゥーセ『スミルノ博士の日記』こそは某トリック使用の嚆矢、と折に触れて言ってくれたおかげで、ファンの記憶に留まったのである。
その幻の古典が中公文庫でまさかの復刊となった。翻訳は〈世界推理小説大系〉で宇野利泰が手掛けた文章がそのまま使われている。元東京創元社社長の戸川安宣が寄稿した解説によれば、宇野の生前に元のスウェーデン語から新訳する計画もあったのだという。乱歩が読み、宇野に貸与したのはスウェーデン語からドイツ語への翻訳書だったのである。重訳ではない『スミルノ博士の日記』も読んでみたかったが、残念ながら訳業を形にすることなく宇野は亡くなってしまった。
本がどんな珍品か、という話は以上である。『スミルノ博士の日記』は、ドゥーセの第4長篇にあたる作品だ。戸川の解説によれば、ドゥーゼの全長篇ではレオ・カリングという元弁護士が探偵役を務めるという。ワトスン役は彼の幼馴染で新聞記者のゲオルグ・トルネである。本書の第一章ではこのトルネが、今から六週間の休暇を取って山籠もりし、その間にカリングの活躍譚を一本書きあげるつもりだから進行中の事件について何か書いたものを見せてくれ、と頼む。カリングはそれをすげなく断るのである。「いや、それはできない。第一に、ぼくの使命を完全に果たしおえないうちは、どんな親友にも、手のうちを見せるわけにはいかない。第二に、いまはそれを話している時間がないし、疲れてもいるんだ。このつぎのことにしてもらおう」とすげない。これを読むと、火村英生の捜査記録を絶対小説にしないと宣言している有栖川有栖がいかに偉いかわかるというものだ。
困ってしまったトルネにカリングが貸してくれるのが、ワルター・スミルノ博士の日記なのである。ある射殺事件に関するもので、スミルノ博士は法医学者として実際の捜査にも立ち会った。その事件について書物にして発表してもいいが「ただし、小説的な潤色はくわえんでもらいたい」とカリングは釘を刺す。その言葉に従って、日記を可能な限り原文に忠実な形でトルネが再現したもの、というのが本書の主部をなす文章だ。つまり手記小説の形式で書かれているのである。その点が重要な意味を持つ。
簡単に事件のあらましを紹介しておこう。ワルター・スミルノは、かつてスティナ・フェルセンに恋をしたが、彼女はファビアン・ボールスという技師と結婚してしまった。失意からなんとか立ち上がった頃に事件が起きる。ファビアンが浮気をしていたらしいアスタ・ドゥールという女性が自宅で銃殺される。スティナは何者かに呼び出されて事件現場までやって来た。そして警察官に逮捕されてしまったのである。彼女の無実を信じるスミルノは、事件を担当するサンデルソン警部に申し出て積極的に関わっていく。
アスタ・ドゥールはさまざまな男性と関係を持っていたらしい。彼女がフィンランド訛りの男性に語気鋭く詰め寄られていた、という証言もあって、容疑者の数には事欠かないのである。もちろん、ファビアン・ボールスも疑わしい一人だ。ここにカリングが加わって、スミルノやサンデルソン警部と対話を重ねながら謎を解いていく。
レオ・カリングは典型的な名探偵で、特筆すべき個性はない。真相を自分だけが知っているというようなほのめかしも、もっとケレン味強く書いていいところだ。だが発表されたのは1917年、現代ミステリーの原型を作ったといえるE・C・ベントリー『トレント最後の事件』がイギリスで発表されたのは1913年のことだから、大雑把に言えばまだ夜明け前なのである。あまり多くのことを求めるのは酷というものだろう。
上にも書いたように本書は某トリック使用の嚆矢と言われるので、他の作品を引き合いに出して語られることが常であった。その作品名はここでは書かない。同じトリックを使っている、と書くと両方に対してネタばらしになってしまうからだ。その代わりにいくつか指摘をしておきたい。
再読してみて感心したのは第一に、トリックを使う必然性が本作には備わっていることであった。トリックのためのトリックではないのである。これは大きく評価すべきだろう。もちろん、犯人の弄した工作などもう少し手を尽くしたほうがいいのではないか、というような箇所もあるのだが、1917年の小説としてはよく書けていると思う。
第二に評価したいのが、初読時には無理だとしても、再読すれば全体の中でその部分が持っている意味がわかる、というようなヒントが各所に置かれている点である。たとえば、トルネが手渡された日記は、最初の数ページが糊付けされていたが、剥がして中を確認したのだ、とカリングが告げるくだりがある。第二章「糊づけにされたページ」がそれである。いったん封印したからにはそれなりの理由があったはずで、読者は注意を向けなければならない。こういう章が丸ごと意味を持つというようなやり方も工夫に富んでいると言うべきだ。現代の作家ならもっと巧く書くだろう、とは思ったがそれは言いっこなしである。原語からの日本語訳だったらどうだったんだろうか、などと想像もしてしまう。
といようなわけで、これまで再読してこなかったのが申し訳ないほどに私は本書を楽しんだのであった。勢いを駆って書棚にあったドゥーセを読んでみた。たまたま見つかったのが改造社の〈世界大衆文学全集〉で、第三長篇の『スペードのキング』と第五長篇の『四枚のクラブ一』が収録されている。翻訳は共に小酒井不木だ。どちらも『スミルノ博士の日記』には遠く及ばない出来で、『スペードのキング』はある重要文書の紛失から始まるスリラー、『四枚のクラブ一』はそれよりは多少出来がよくて、カリング探偵を事件に関わらせるやり方に工夫がある。だが、あえて今読まなければならない小説でもない。
『スミルノ博士の日記』は、この凡庸な二作の間に発表された長篇なのである。突然変異的にこの作品だけドゥーセには神が降りたのかもしれない。ちなみに、ゲオルグ・トルネは本作だけではなくて前後の二長篇にも助手としての登場がない。あるいは翻訳の尺の問題で、登場場面が削られてしまったのかもしれないが。どうやらレオ・カリングは、推理をするのに旧友の助けを借りる必要はないようなのである。ワトスン役として君はそれでいいのか、ゲオルグ・トルネ。
(杉江松恋)
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