台湾私立探偵小説続編『DV8 台北プライベートアイ2』刊行!

台湾私立探偵小説続編『DV8 台北プライベートアイ2』刊行!

 今度は過去の物語なのか。

 台湾作家・紀蔚然『DV8』(舩山むつみ訳/文藝春秋)が刊行された。2021年に翻訳され、第13回翻訳ミステリー大賞にも輝いた『台北プライベートアイ』(現・文春文庫)の続篇である。元演劇人で大学教授でもあったが、すべてを投げ出して私立探偵に転職したという無茶な男・呉誠が今回も主人公となる、一人称一視点の私立探偵小説である。

 前作で呉は首都・台北を騒がす連続殺人事件を解決に導いた。その功績はまだまだ有効であるらしく、呉は行く先々で彼の名前を知っている人に出くわす。身辺にはいろいろ変化があった。前作では台北市内、台湾大学の東側にあたるうらぶれた臥龍街というところに呉は住んでいた。仕事も、結婚生活も放り出しての心機一転だったのである。『DV8』でも呉は、台北市を離れて新北市沿岸の北端に近い淡水に移住している。台北市と新北市の関係は、ワシントンDCがワシントン州の関係に近い。かつては台北県といった新北市は、台北市をぐるりと取り囲んでいるのである。新生活を始めた淡水で呉が見つけたのが、DV8というバーだった。エマという女性が一人で営業しているこの酒場に、呉はすっかりはまってしまう。DV8か、もしくはエマの方に。

 私立探偵としてすっかり有名になった呉に何琳安、通称安安が依頼人としてやってくることから話は始まる。彼女は法律事務所に勤めている新米弁護士なのだが、最近になってパニック症候群と見られる精神状態を経験するようになった。危機感を覚えて精神科医に相談したところ、それは古い記憶が蘇ろうとしていることによる症状だという。内省の結果、安安が思い当たったのは、20年前の体験だった。5歳の安安は、ある少年の母親が殺害される直前の場面に遭遇したことがあったのだ。「お兄ちゃん」は、彼女の安全を確保すると母親の元に駆けつけたが、そのまま帰ってこなかった。そういう事件があったということは知りえたが、詳細はわからない。安安の依頼というのはその「お兄ちゃん」に会いたいというものなのである。そのことで過去へつながる扉を開くことができればきっと、今の精神状態も改善できるだろうから。

 人探しのために過去に遡るというのは私立探偵小説プロットの常道だ。呉の調査は初め、難航する。台湾におけるインターネット環境の黎明期に起きた事件であるため検索しても情報が出てこないのと、警察組織がそうした探索に対応していないという理由があるからで、このへんの事情が細かく綴られるのが面白い。ようやくその、石田修という男性が見つかるまでが話の序盤で、任務はこれで終わりか、やれめでたしめでたし、と思っていると次の展開になる。

 小説の題名がバーの名前であるDV8になっているのは、そこが呉にとっては憩いの場であり、生活にとって不可欠な拠点になっているからだ。DV8で会った人たちを通じて彼は自分を見つめ、DV8で考えたことが脳の回路そのものになっている。DV8とは英単語のdeviate、つまり逸脱の意味で、社会から外れて自分たちだけが共有できるような境遇、精神状態を持つことを示している。主人公が社会から自分を切り離して観察し、呉誠とはいかなる存在の人間であったかを見直すことが小説の主題になっているのである。そうした意味では非常に内省的な小説であり、エピグラフにイマヌエル・カントが引かれていることにも納得する。極端な言い方をすれば、巨大な一人称小説なのである。私立探偵として動き回っている呉誠はもちろん主人公だが、それはDV8という外付けドライブを伴った存在でもある。エマを通じて店と深くかかわっていく中で、DV8は呉の内面に取り込まれていく。

 そうした構造が主人公の側にあるので、ミステリーとしてのプロットにも一風変わった趣向が凝らされている。前述したとおり、安安が呉に仕事を依頼しにきたきっかけは、彼女の意識深層下で事件の記憶が表出しそうになっていると感じたからだった。小説全体を通じてこのことが問題になっていく。つまり、なぜパニック症候群になるほど安安は心理状態が動揺したのか、という謎である。読者は呉誠と安安、二人の脳の中を覗きこんでいるような気持ちになるはずだ。

 紀蔚然は30本近い戯曲著作のある演劇人で、台湾大学戯劇学系で教鞭をとっていたという経歴を持つ作者である。呉と違って喧嘩をして辞めたわけではなく、定年退職の後に専業作家となった。『台北プライベートアイ』の発表は2011年で、『DV8』はその2021年、約10年の間を空けての続篇ということになる。呉のキャラクターが変化しているのも、時の経過が影響したものだろう。ちなみに淡水住まいになったのも、紀自身がそこに引っ越したからである。自身の主人公と一体化するような形で紀はこのシリーズを書いている。小説の叙述が一人称であるのは、そうした理由もあるのだろう。

 一人称私立探偵小説だからといって、安易にハードボイルドの名称を与えていいとは限らない。ハードボイルドというのは極めて定義があやふやな文学用語だからだ。だが、一人称一視点であるということを有効に活用したミステリーであることは間違いない。前作『台北プライベートアイ』もそうだった。あの作品では、警察組織に属さないにも私立探偵であるにもかかわらず、呉が連続殺人事件の捜査に参加することになる。そういう状況が成立するまでのプロットに独自性があるのだ。短気で、すべてのことに腹を立てる傾向のある呉の性格がプロットと有機的に結びついていた点も評価できる。

 本作は呉をはじめとする登場人物が内面に降りていこうとする話である。呉には鬱病に悩まされていた過去があり、物語の中でも突如パニック障害に襲われる。そうした個人的事情が捜査過程の叙述に起伏を与えているのである。エマとの対話によって呉が自分の怒りと同居できるようになるくだりは、静かな感慨を呼ぶ。苦労の果てに自分なりの平和を見出す小説としても読むことはできるはずだ。呉に共感を覚える読者は多いのではないだろうか。

(杉江松恋)

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