幻の名作ヤーン・エクストレム『ウナギの罠』が登場!
じわじわー、じわじわー、密室になるよー。
あまりにおもしろかったので節をつけて歌ってしまった。ヤーン・エクストレム『ウナギの罠』(瑞木さやこ訳、扶桑社ミステリー)は世にも変わった密室が出てくることで知られていたが、なかなか訳が出ずに読めずにいた幻の名作である。
舞台はスウェーデン南部イェンシェーピン県にあるボーラリードという集落だ。そこに流れるニッサン川で変死体が発見されることが事件の始まりである。
死体があったのはウナギ罠の中であった。日本でウナギの罠というと、河川を堰き止めて仕掛けられる簗(やな)や、流れに沈めて使う筌(うけ)などが思い出される。後者は長い漏斗状になっていて、入り口から入ってきた魚が出られなくなる一方通行である。本書の中に出てくるものは、その巨大化版と言うべきか。幅2メートル、長さ3メートル、高さ2メートルほどもある。その箱が、川に向けて水の流入口を持っている。ウナギが入ってくると出られなくなるのだ。箱の上面には出入口があって、人間が獲物を取り出せるようになっている。その箱の中に頭部を殴られた男の他殺体が入っていたのである。
負傷の状況から、攻撃を受けたのは狭い箱の中ではなく、どこか外であったことがわかる。誰かが男を殴った後で、体を箱の中に入れて立ち去ったのだ。なぜそんな珍妙な場所に体を遺棄したのか、という疑問が当然頭に浮かぶことだろう。
上手いのは、この死体発見場所が密室であることが最初は示されないことだ。状況証拠が揃っていくうちに、だんだん密室であったことがわかってくる。その過程では当然だが、被害者を巡ってどのような人間関係があったかも明かされているので、犯人は誰かという謎に読者の関心が集中していくのと機を一にして、どうやって密室を形成したのか、という不思議が浮かび上がってくるという仕掛けだ。ミステリーはトリックだけで形成されるものではなく、謎を謎らしく見せるプロットによって美しく演出されるのだということがよくわかる作品である。じわじわー、じわじわー、密室になるよー。
謎解き小説のプロットとしては、アガサ・クリスティー型と言っていいだろう。クリスティーは殺人事件を起こす前に関係者たちを群像として登場させ、その中でどのような愛憎の種が育成されているかをまず見せた。そのことにより、複数の容疑者がいることを読者は納得し、いざ事件が起きるとその中から犯人を探し始めるわけである。
本作の被害者になるのは、ボーラリードの大地主であったブルーノ・フレドネルという男だ。複数の人間が彼に借金があり、傍若無人なふるまいをされても強く出ることはできなかった。当然恨みを買っているわけで、そのうちの誰もが犯人となる資格を有している。主たる視点人物の一人は、今はボーラリードを離れてエコノミストとして成功を収めているラーシュ・マグヌソンで、半ば異邦人である彼の目から、集落の人々の外形が描写されていく。フレドネルに支配される生き方が嫌ならばボーラリードを出て暮らせばいいと思うかもしれないが、それをできなくさせるのが因習というものだろう。狭い共同体に縛りつけられて生きるしかない人々の諦念が、陰鬱な湖や川の情景に託されて描かれる。
エクストレムはまず、事件当夜に起きたことを複数の視点を用いてテーブルの上にカードを並べるようなやり方で読者に見せる。それを後から解釈するのがバーティル・ドゥレル警部の役目である。彼のために用いる手がかりは、すべて読者の前にフェアな形で示されており、解決編に入ってからもいちいち納得させられるのである。手がかりはやはり、多ければ多いほどいい。
ヤーン・エクストレムはこれが初訳ではなく、30年以上前に『誕生パーティの十七人』(創元推理文庫)という長篇が刊行されたことがある。登場人物がやたらと多くて読むのに苦労はしたが、そんなに感心するような出来栄えという印象はなかった。だから今回の『ウナギの罠』にはびっくりである。こんなにおもしろい作品だったのか。
驚くことはまだある。本作が刊行された1967年は、世界的な民主化運動の流れがあり、スウェーデン国内でも反体制派によるデモなどが盛んになっていた時期である。そうした運動が起きていたというのは、逆に言えば反動的なものが力を持ち始めていたということだ。ジャーナリスト出身の作家、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーは、そうした状況に懸念を抱き、これから失われていくだろうものを小説の形で記録に留めることを決意した。それが1965年に第一作『ロセアンナ』(角川文庫)が発表された大河警察小説〈マルティン・ベック〉シリーズである。この作品はリアリズム推理小説の頂点を極め、後の北欧ミステリーの祖型となった。つまり現代ミステリーの基礎が固まりつつあった時期に、並行して古典的探偵小説の精華というような作品が発表されていたということである。北欧ミステリー史の見方をもう一度考え直さなければならないだろう。
そんなわけで内容の上でも、里程標的な意味でも重要な一作である。必読。だが本書最大の謎は、本文とそのあとに付された解説、訳者あとがきをすべて読み終わった後にやってくる。
解説文は2021年に亡くなったミステリー研究家・松坂健氏が「ミステリマガジン」1971年11月号に発表、後に『二人がかりで死体をどうぞ』(瀬戸川猛資と共著。書肆盛林堂)に収録されたものが掲載されている。日本で最初に『ウナギの罠』を紹介した文章である。松坂氏は、おそらく英訳書でこの作品を読んだのだろう。登場人物名などが本文とは微妙に異なる。作品の雰囲気を横溝正史作品になぞらえているなど、なかなか読みごたえがある解説だ。
ただ、これを読むと思い出してしまう。たしか生前の松坂氏に『ウナギの罠』の翻訳は昭和のある時点ですでに仕上がっていて、その完成原稿を見た記憶があるとおっしゃっていたはずなのだ。それがなぜ刊行されなかったのか、そして原稿がどこに消えてしまったかは知る由もない。2024年になって無事に『ウナギの罠』が出ましたよ、と言ったら松坂氏はいったい何とおっしゃるだろうか。
松坂さん、ぼくらのあの『ウナギの罠』、どうしたんでせうね。
そう、JR某駅から出て数分のあの出版社で、誰かの机の中へ消えたあの『ウナギの罠』ですよ。
(杉江松恋)
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