静かな感動作? それとも不穏が募るイヤSF?~間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』
第十一回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作。刊行に先だって〈SFマガジン〉に一挙掲載され、大きな反響を得た話題作である。
2123年10月1日、語り手のわたしはもうだれもいない場所の小さな家で、自分の人生と家族についての回想を綴りはじめる。文章は自己流でつたなく、ところどころ脱線はするものの、叙述はあくまで明快だ。
ただし、これをひとつの物語としてたどる読者にとっては、核心(非劇的な真相)がなかなか明かされない。それは、わたしが悲劇とも真相とも認識していないせいだろう。わたしには激しい感情がほとんどなく、ものごとをガラス窓ごしに眺めているような話しかたをする。しかし、それは客観的ということではなく、「びっくりした」「ありがとう」などの心の動きはあるのだ。
わたしの感情が独特なのは、およそ百年前、身体を人造物で代替して、老化から永遠に解放される融合手術を受けたせいかもしれない。それとも、手術以前の人生においてすでに感情が壊れていたのだろうか。
手記にはこんなふうに記されている。
たべるのもねるのもいやな生活が十才ごろから二十代のぜん半までつづくとさすがにうつっぽく死にたくなっていろいろありけっきょくゆう合手じゅつをうけることになるんだけど、ふとおもいだしたからボーカロイドのはなしがしたいです。
この段階で、読者に伝えられているのはもっぱら、わたしの健康面での不調である。ただし、その不調の深奥に、わたしの家族の問題があることはうすうす察せられる。
それとは別に、唐突にボーカロイドの話題を持ちだしたりするのも、わたしの心理の尋常ならざるところだ。
いずれにしても、センシティヴな事態がわだかまっている。
融合手術によってわたしの感情が変わったとすれば、それはアイデンティティ(身体と心の関係)にかかわる道義的問題である。ひいては、手術対象者に対する社会的偏見や差別にもつながりかねない(事実、手記のなかにそういう目にさらされたとある)。
いっぽう、融合手術ではなく、それ以前にわたしの心が壊れていたとすれば、幼年期から思春期にかけての環境が問われ、なんらかの虐待すら予想される。
わたしの回想、おもに家族に起こったあれこれは、いっけん淡々とめぐっていく。家族とは、わたしの出産時になくなった母、その母を溺愛していた父、父とはずっと不和になっている兄、早くに独立して家を出た長姉、わたしとはもっとも仲の良かった次姉、そして次姉の子であるシンちゃんだ。
シンちゃんが赤ちゃんだったころから、わたしはしばしば彼の世話をし、彼もわたしに懐いた。そして、シンちゃんが大人になってからは、彼はわたしの恋人になった。ただし、わたしの身体は人造物なので通常の肉体的性愛は成立しないし、もともとわたしにはそういう欲動が欠けている。
家族間の葛藤、時代の変化による波風はあるにせよ、わたしを過ぎていく流れ、小さな家に降り積もっていく時間は静かだ。遙かな昔、死を願っていた十代のころにくらべれば、いまのわたしはしあわせなのだろうか?
本書を先行して読んだひとのなかからは、「はじめて『アルジャーノンに花束を』に出会った時のような」という賞賛の声も聞かれる。確かに、文章の手ざわりは感動作である。
しかし、少しだけ視点を変えてみると、ここにあるのは、第一回ハヤカワSFコンテストを受賞した六冬和生『みずは無間』以来の、悲しくおさまりのつかない物語だろう。
どちらとも決められない。あるいはどちらでもある。受けとめかたは読者しだいだ。
(牧眞司)
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。