心の中の幽冥を描く短編集〜岩井圭也『暗い引力』

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心の中の幽冥を描く短編集〜岩井圭也『暗い引力』

 心の中はぼんやりと暗い。

 岩井圭也『暗い引力』(光文社)はその幽冥のさまを的確に描いた短篇集である。

 ぼんやりと暗いというのは、ぼんやりと明るいということでもある。完全な闇なのではなく、どこかから光が入ってきている。光がどこからやってくるのかを見つけられれば、あるいは完全に明るい場所に出ることができるのかもしれない。それができなければ、ぼんやりと暗いところに居続けるしかない。あるいは、もっと暗い場所へ引き込まれてしまうだろう。暗く、戻る道も見えないような場所へ。

 6作を収めた短篇集である。初出はすべて雑誌『ジャーロ』だ。2023年に『完全なる白銀』(小学館)が第36回山本周五郎賞の候補になるなど、主に長篇作品が注目されることの多い書き手だが、実は短篇の名手でもある。

 巻頭の「海の子」は、ある父子の物語だ。七十二歳の〈私〉は、妻の桂子に先立たれたばかりである。二人の間には海太という息子がいる。その海太が〈私〉に、僕はどこでどうやってもらわれたの、と質問をぶつけてくることから話は始まる。実は二十年前に異常な出来事があり、それが縁で夫婦は海太を養子にしたのである。問い詰められた〈私〉は息子に一部始終を話し始める。奇譚というべき内容なのだが、あることがきっかけとなって様相が変化し始める。ごく単純な解を示し、それを梃子に用いてそれまでの話を転覆させ、まったく違った一面を読者に見せるという、短篇ミステリーのお手本のような作品だ。最後の一行が印象的で、たっぷりと墨を含んだ筆で衣服に黒々としみをつけられたような読後感が残る。そのあといくら洗濯しても墨は落ちないだろうし、広がって布地全体を黒く染めてしまうかもしれない。そういう後味だ。

 続く「僕はエスパーじゃない」は、ごく平凡な家庭を描いた短篇だ。〈僕〉こと三島悠介と梨香の夫婦には、碧人という保育園児のこどもがいる。〈僕〉は家事分担も進んでこなす。いや、自分よりもキャリアを積んで忙しい梨香に率先してそれを行い、職場でも家族思いの優しい男性だとの評判を得ている。その彼のスマートフォンに、梨香から一通のメッセージが届く。わたしたち、別れたほうがいいと思う。メッセージにはそう書かれていた。

 妻にとって自慢の夫であるはずの男が、なぜ別れ話を切り出されたのか。それが本篇の謎である。心理の機微を描いた小説で、一見不可解な妻の行動に、納得のいく解釈が示される。特に奇を衒ったわけではなく、ごく普通の夫婦に起きた出来事であるところが本篇の肝だ。つまり、悠介は世の男性の誰でもおかしくないのである。読みようによっては、とても皮肉な物語だと言うこともできる。

 暗い方向に突如引きずり込まれることになった人々が本書の主人公だ。「海の子」の主人公の如く特別な事件に巻き込まれずとも、「僕はエスパーじゃない」の悠介のように突如自分の足元に穴が空いていることに気づかされるかもしれない。「捏造カンパニー」は勤めていた会社から理不尽極まりない形で馘首された男が、社会に報復しようとする犯罪小説だ。その手口が凝っているのはもちろん、ある事態が起きて弥縫策に頭を悩ませるようになる後半の展開がスリリングで楽しませてくれる。「蟻の牙」はメールのやりとりなどで構成された書簡体小説で、夫の死は過労の結果であり、労災が認定されるべきだと主張する女性と、頬かむりしてすべてなかったことにしようとする会社との攻防が、思わぬ事態へと発展していく。権力者が自らの過ちを決して認めず、証拠の捏造からスラップ訴訟まで手段を選ばず弱者の声を封殺しようとする現代の世相を描いた諷刺小説としても読むことができる。作者の視線は個人だけではなく、社会全体に対しても向けられているのである。

 残る二篇のうち「極楽」は、本質から目を背け続ける者の逃避小説だ。嫌なことがあったとき、自分の責任を認めたくないとき、目をつぶってやり過ごしたくなる気持ちは誰にでもある。いったん易きに身を委ねてしまえば、人はどこまでも流されていくだろう。そうした怖さが描かれている。最後の「堕ちる」は妄執の小説で、地方美術館に就職した学芸員の主人公が、ある作家の個展を開こうとする。美術小説に分類される作品だが、根幹にあるのが芸術や美に対する情熱だけではない。主人公を動かしているのは個人の思いとしか言いようのないものなのであり、そのために歪んだ結果を引き寄せてしまう。

 各篇に共通するのは独善だ。個の世界に閉じこもった人間は他人と対話をせず、心の中に自分にしかわからない思いを貯め込んでいく。それらは澱であり、視界を塞ぐ雲だ。その中に絡めとられた人間の心を意地悪く作者は描くのである。自分だけは大丈夫。そう思っている読者は、ここに書かれた者たちと同じ間違った道のほうへ、既に踏み出しているのかもしれない。ゆめゆめ油断を怠るべからず。そっちの道は暗いぞ。

(杉江松恋)

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