油断禁物の早坂吝『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』

油断禁物の早坂吝『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』

 限界に挑戦してみようと思う。

 早坂吝『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』(光文社)を紹介するのだ。

 早坂吝を紹介するのは無理、それは限界、と言っているわけではないので誤解なきよう。『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』は無茶苦茶あらすじを書きにくい小説なのである。限界に挑戦してみよう。題名が長いので、このあとは『SM』と略す。

 扉ページを開けると迷宮牢の見取り図が置かれている。正方形の中に臓器のように入り組んだ通路がある図形で、これが単なる迷路ではなくて建築物だとわかるのはところどころに人の氏名らしきものが書かれているからだ。死宮、とあるのは帯に本書の探偵役を務めると書かれている死宮遊歩のことだろう。よし、そういう話なのだな。いわゆるクローズドサークルもので、死宮遊歩を始めとする関係者がこのぐにゃぐにゃ通路の館に閉じ込められて殺人事件が起きるのだな、たぶん名称が迷宮牢なのだろう、それにしても綾辻行人『迷路館の殺人』を思い出すな、あれはびっくりした。

 などと考えながら巻頭の「しおかぜ市一家殺害事件」という章をを読み始めると、これがまったく違う。

 餓田というのが視点人物の名前だ。餓田はある日、街で自分にとっては不快な光景を目撃する。中年男性が若い女性を突き飛ばし、詫びの一言も口にせずに行ってしまったのだ。相手が弱い立場だと見るとこういう振る舞いに及ぶ、いわゆる「ぶつかりおじさん」だ。非正規雇用で働く工場で餓田は、意地の悪い正規雇用の社員様に腹を立て、おまけに本屋では自分の好きなミステリーの棚に気にくわないタイプの作品ばかり並んでいることに憤慨して「まーた最後の一行で世界が反転するのか、叙述書いたらデビューできるっていう情報商材でも売ってんのか?」「はいはい、意外な犯人、あらすじ見ただけであのパターンって分かるわ」と怒りを募らせる。いや、私ではなくて餓田が言ったのである。餓田は「いい大学」に入ることを強制する、いわゆる「毒親」に育てられたため、ミステリーだけが唯一の楽しみだったのである。いや、私ではなくて餓田が。

 そういう風に嫉みと妬みのかたまりで世間に対する憎悪を募らせていたところ、餓田は男を見てしまう。あの「ぶつかりおじさん」だ。尾行して相手が一戸建てに住んでいて家族にも恵まれ、たぶん正規雇用で年収も高いだろうということを知った餓田は昏い決意を固める。これは成敗しなければならぬ。

 というところで「しおかぜ市一家殺害事件」は凄惨な展開を迎えることになる。ああ、これはなんだ、ありがちな犯罪者の話なのか、それにしても餓田はひどいやつだな、と思っているといきなり違う話が始まるのである。

 迷宮牢が出てくる。

 死宮遊歩が目を覚ますとそこは見知らぬ部屋の中で、扉を開けて外に出ると迷路のようなおかしな構造になっており、同じような境遇の人間が他にもぞろぞろいた。全部で七人である。どういうことになっているのかとにかく状況を把握しようと話し合っていると、天井のスピーカーから妙な声がし始める。「ミーノータウロス」と名乗る謎の人物は、「今日は皆さんにちょっと殺し合いをしてもらいます」と言う。なぜならば、そこにいるのは許されぬ罪を犯した者たちばかりだからだ。殺し合って、生き残った一人だけが解放される。それがルールである。

 高見広春『バトル・ロワイアル』じゃん。

 でもって監禁される理由はアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』じゃん。

 こうして始まったデスゲームの中で次々に犠牲者が出てしまう。自分が探偵であって殺人者ではないとわかっている死宮遊歩は当たり前だが他の六人の中に犯人がいると睨んで、推理を開始するのである。

 こういう話だ。ポイントは「いかにもありがち」という点にある。既視感のある舞台や設定を使って読者の眼を欺き、仕掛けを施すのが早坂の常套手段なので絶対に油断はしないように。意外なことに話は見取り図の迷路のように入り組んではおらず、するすると進んでいくのでとても読みやすい。いや、迷路ではなくて迷宮だから。迷宮というのはどんなにぐるぐる回り道をしても決められた場所に必ず到達するようにできている、と作中にも書かれているでしょう、と言われればその通りだ。迷宮のように必然的な結論へとたどり着くことができる。それもまた作者の企みの一つなのだが。

 本書のおもしろい点は、仕掛けの多層性にある。これはネタばらしになりかねないことなので慎重に説明するが、Photoshopでレイヤーを重ねてイラストを描いているようなものである。どこのレイヤーに仕掛けがあったのかは、結合してしまうとまったくわからなくなる。作業の途中を保存して、よく覚えておかないと。そういう感じで手掛かり呈示がされているのでご注意いただきたい。注意してもたぶん間違えると思う。

 読後感はこの作者ならではのものだ。初出は雑誌『ジャーロ』でそのときの題名は『迷宮(す)いり』だった。(す)が入るのと入らないのとではかなり意味が違う。それが改題されたこと、説明したような変わった構成になっていること、死宮遊歩がかなり独善的な性格に設定されていること、それらにすべて意味がある。帯の推薦文を書いているのは有栖川有栖だが、それにも意味がある。全部意味がある、非常に密度の高い作品である。お薦め。

 あ、しまった。せっかく長い題名を略したのに『SM』って書くところがなかった。まあ、いいか。

(杉江松恋)

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