小さな町の隠された素顔〜エリン・フラナガン『鹿狩りの季節』
最も近い人の心の中も覗き込むことはできない。
人間は個として生きているがゆえに、絶望的に孤立した存在である。エリン・フラナガン『鹿狩りの季節』(ハヤカワ・ミステリ)はその事実を描いた長篇だ。
舞台となるのはネブラスカ州のガンスラムという田舎町である。全員がこどものころからの顔見知りであるような小さな共同体だ。アルマとクライルのコスタガン夫妻は、その中でも新参者に近い。もともとはシカゴに住んでいたのだが、事情があってクライルの実家があったガンスラムに戻ってきたのである。アルマはスクールバス運転手の仕事を見つけ、クラインは父が経営していた農場を受け継いだ。切り盛りのためにやとったのがハル・ブラードという青年である。ろくでなしの父親とアルコール依存症の母親の間に産まれたハルは、幼い頃にネグレクトを受けて事故に遭い、その結果知的障害を背負うことになってしまった。大好きなオレオを渡されると一瞬で全部食べてしまうハルは、困ったことがあると嘘をつくという悪い癖もある。だが明るく、気のいい人物だ。
物語の始まる十一月は、ガンスラムでは鹿狩りの季節だ。同世代の男たちに誘われて鹿狩りに行ったハルはうきうきしながら農場に戻ってきた。雌鹿を撃ったと自慢したが、クライルに一つふたつ質問されると途端に困った顔になった。どうやら取得していた許可証は雄鹿だけを撃てるもので、しかも自分で解体しようとして小屋を血まみれにしてしまったらしい。これは厄介なことになる、と顔を曇らせながらクライルは後始末に出かけた。
しかし、本当の厄介ごとは別にあった。その日、アハーン家のペギーという高校生が行方不明になっていたのだ。ペギーは大人びた少女で、田舎町のガンスラムでは浮いた存在になっていた。一時的な家出かと思われたが、時が過ぎても彼女は戻ってこなかった。ペギーの失踪にハルが関わっているのではないか、という噂が町で流れ始め、アルマ・コスタガンは苦悩する。クラインが、ハルの乗っていたトラックに衝突してへこんだ痕を見ていたためだ。夫妻に対するハルの態度はおかしく、何かを隠しているように感じられた。
小さな町で起きた事件が共同体の隠された素顔を炙り出していくというタイプの心理スリラーである。他の人とは違うから、という理由でハルには根拠のない嫌疑がかけられる。均質な共同体の一員ではないからというべきか。ここで描かれているのは息が詰まりそうな同調圧力である。クラインは町の生まれだが出戻り、アルマは外から来た人間と、共同体の境界にいる夫妻が視点人物になる。彼らの視点から閉じた人間関係が描かれるのである。
忍び寄る疑いは、夫婦の間にも亀裂を呼び込む。クライルが妻に対して秘密を持っていることが中盤で明かされる。彼らがガンスラムに戻ってきたのは、クライル家の農場を維持するためでもあるが、アルマが複数回の流産を重ねたからでもあった。他の家庭にはいるこどもが夫妻にはいないこと、更年期の症状としてホットフラッシュにたびたび襲われることがアルマにとっては感情を不安定にする要因にもなっている。クライルが半分は町の人間であるため、完全なよそ者であるアルマにとっては時に自分を責める敵側の存在に見えることもある。そして夫に秘密があることに彼女は気づいてもいる。
灰色の雲が次第に立ち込めてくる。アルマとクライルの夫婦関係を描くことが主眼だということが明らかになるのは三分の一を過ぎたあたりで、以降はアルマに共感しながら読み進めることになる。町のディテールが詳細に描き込まれていて、皮膚感覚でわかると言ってもいい。
――あの日、フィリスの美容室から帰ってきたアルマは、バスタブの蛇口の下に頭をつっこんでべとべとのヘアスプレーをきれいに洗い流した。この町の女たちはみんな、〈アクアネット〉のヘアスプレーを使って髪の毛をヘルメットのように固めていた。アルマは彼女たちに馴染もうと努力することに飽き飽きしていた。誰もちゃんと説明してくれない小さな町のゲームのルールに従うことに疲れ果てていた。彼女たちと同じレシピで料理し、彼女たちと同じ教会に行く。それでも、のけ者にされることは多かった。
アルマとクライルの物語と並行して描かれるのは、ペギーの十二歳の弟、マイロ・アハーンの成長譚だ。姉の失踪によってマイロは無理矢理大人への階段を上らされることになる。ある日突然「なにかが起きたあと」の世界を生きなければならなくなるのだ。戸惑いながら新しい世界を生きる彼の人生は、あるところでアルマたちのそれと交差する。そのことが小説における、わずかな救いになっているのである。
本作は2022年度のアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞に輝いた。エリン・フラナガンはこれがデビュー作である。描かれているのは日本から遠く離れた小さな町の出来事だが、そこで起きていることはむしろ非常に近いものである。共同体で生きる者にとっての普遍をフラナガンは書いているのだ。幹の太い物語である。エリン・フラナガン、今後が非常に楽しみ。
(杉江松恋)
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