『あのこと』 主演アナマリア・ヴァルトロメイ インタビュー
©François Berthier
今年のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家アニー・エルノーが自身の体験をもとに綴った短編小説『事件』を、元ジャーナリストのオードレイ・ディヴァンの監督・脚本で映画化した『あのこと』が12月2日に全国公開される。舞台は法律で中絶が禁止されていた1963年のフランス。労働者階級に生まれ、知性と努力で大学に進学したアンヌは、将来がかかった大切な試験の前に妊娠していることに気づく。映画は自らが望む未来をつかむため、迫り来るタイムリミットを前にたった一人で闘うアンヌの姿を、彼女の目線から臨場感たっぷりに描き出す。今もなお過去のことにはなっていない人工妊娠中絶というテーマに向き合い、第78回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いた本作で、主人公アンヌを見事に演じ切った俳優のアナマリア・ヴァルトロメイにリモートで話を聞いた。
――こんにちは、今はパリにいらっしゃるんですか?
アナマリア・ヴァルトロメイ「実は今、映画の撮影で1ヶ月ほどロンドンに滞在しているんです。とはいえ、まだ映画の内容は秘密なのですが(笑)」
――そうなんですね。劇中では笑顔が少なかったので、今日は笑顔が見られてうれしいです。『あのこと』は、これまで映画の中心的なテーマとしてはあまり取り上げられてこなかった、人工妊娠中絶について描いています。初めて脚本や原作を読んだとき、どのような印象を抱かれましたか?
アナマリア・ヴァルトロメイ「まずは激しい怒りを覚えました。その怒りは、若い女性を裁くような司法に対してだけではありません。アンヌと同じ世代でありながら、このような暴力的な現実があるという事実さえも知らなかった、自分自身に対する怒りも感じたのです。私は一人の女優として、このとてもタブーなテーマを覆い隠してきたベールを剥ぎ取る責任があると思いました。このテーマについては、実は誰もあまりよくわかっていないと思うんです。ですので、私はこのアドベンチャーに参加することで、少しずつでも物事が変わっていくように、石を積み上げていくような手助けをできればと思っています」
――劇中には目を覆いたくなるような、肉体的に苦しいシーンもありますが、台詞ではなく表情で演じる部分も多く、心身ともに難しい役ですよね。どのようにアンヌという役にアプローチしようと思いましたか?
アナマリア・ヴァルトロメイ「監督と一緒に本や映画を参考にしながら、少しずつパズルを埋めて人物像を作り上げていきました。母と娘の関係は『ブラック・スワン』のパラノイアな感じを参考にしましたし、他にも『サウルの息子』やルーカス・ドン監督の作品など、さまざまなレファレンスを積み上げて、アンヌがどのような道を歩んでいったか探っていきました。中でも一番参考にしたのは、ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』です。アンヌはエミリー・ドゥケンヌが演じたロゼッタのような人物なんです。障害が目の前に現れて一度は崩れ落ちても、再び立ち上がって、まるで兵士のように前を向いて歩いていきます。監督と私は『アンヌもロゼッタと同じように小さな兵士だね』と話していました。“小さな兵士”という言葉からは、背筋をしっかり伸ばして、地に足を着けている、彼女の姿勢も想像できました。また、アンヌは労働者階級ですので、衣装でも彼女が属する社会階級が示されています。あるいは、肩の表現であるとか、社会に対して少し不信感を抱きながら睨むような上目遣いだとか。そんな風に、本当に監督と一緒に作り上げていった役でした」
――本作ではカメラが常にアンヌにフォーカスしているので逃げ場がなくて、観ているこちらも焦燥感や孤独、恐怖心に駆られました。
アナマリア・ヴァルトロメイ「もう一つ監督と私が話し合ったのは、アンヌの中で育っている胎児が、まるで時限爆弾のような存在だということです。実は撮影中、録音技師からイヤフォンで“チクタク、チクタク”という音を聴かせてもらっていたんです。話が進行するにつれて、そのチクタク音は少しずつ大きくなっていきました。クラブで踊るときのような、今にも爆発しそうな大音量をイヤフォンで聴かせてもらったおかげで助けられていたんです。沈黙のシーンでも私自身は何かを感じていて、まるでアンヌが乗り移っているかのような気分でした」
――映画の舞台は60年代ですが、このテーマは残念ながら過去のことにはなっていません。今でも中絶が法的に認められていない国は存在し、女性が自らの体に関して選択する権利を奪われています。特に今年はアメリカの最高裁が「中絶は憲法で認められた女性の権利」と定めた49年前の判決を覆したことにより、複数の州が中絶に関する規制を厳格化する方針を表明したことが大きな話題となりました。この物語を今の時代に伝えることに、どのような意味があると思われますか?
アナマリア・ヴァルトロメイ「本当に、“残念ながら”と私も言いたいです。今、時代を逆戻りしているようなことが起こっているのは、非常に衝撃的なことですよね。本作には確かに、このような現状に対するアンチとしての役割があります。女性の権利という大義を掲げるスポークスマン的な映画だという意味では、とても誇りに思いますし、包み隠さずに現実を差し出している作品ですから、それをたくさんの人に観てもらえること自体は、とてもうれしいことだと思います。でも、60年代の物語として終わりにできないことが悲しいですよね。本作のテーマは非常に今日的な意味を持っているので、監督は衣装や美術ですぐに60年代だと認識できないように設定していました。アンヌが医者に会いに行って誕生年を言うときに、観客はようやく時代設定に気づくのです。観客が冒頭のシーンからアンヌと一体化できるような準備が整っていて、過去の話だからと距離や壁を感じたりせず、ちゃんと我がこととして捉えられるように配慮されています」
――物語は原作者のアニー・エルノーさんの実体験に基づいているそうですね。彼女がノーベル文学賞を受賞したと聞いたとき、たった一人で自分の未来のために闘った劇中のアンヌの姿と重なって、本当にうれしく思いました。アンヌ役を演じるにあたって、ご本人とお会いする機会はありましたか?
アナマリア・ヴァルトロメイ「撮影前にお会いしたかったのですが、コロナ禍でロックダウンがあったため叶いませんでした。それは撮影が始まってからも心残りで、自分の中に何かが少し欠けているような気がしていたんです。どこか自分には正当性がないのではないかという気持ちがありました。でも、振り返ってみると、会わなくてよかったのだと思います。もし会っていたら、彼女を模倣するような演技になって、表現の自由を失っていたかもしれません。それに読み直してみると、原作の小説『事件』の主人公と、監督と私が作り出したヒロインは少し違うんですよね。そういう意味では、会わなくてよかったのかなと今は思っています」
――ノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて、どう思われましたか?
アナマリア・ヴァルトロメイ「高校時代に『場所』も読みましたが、アニー・エルノーは女性の思いや真実を非常に的確な言葉で表現できる小説家です。私自身も若い女性として、彼女のエクリチュールからたくさんの糧をもらった気がします。実は上映会のときに彼女が来てくださって、尊敬する女性にお会いすることができて胸がいっぱいになりました。ノーベル賞の受賞も、自分のことのようにうれしかったです。本当に聡明な方ですし、受賞は当然のことだと思います。ノーベル文学賞が発表された日、たまたま監督のオードレイがロンドンに一日だけ来ていたんです。一緒にアニー・エルノーの受賞について聞くことができて、まるでもう一度3人が一体化したような、そんな楽しい経験をさせてもらいました」
――今日は貴重なお話をありがとうございました。日本でも『あのこと』をきっかけに、たくさんの会話が生まれるといいなと思っています。
アナマリア・ヴァルトロメイ「ありがとうございます。うれしすぎるくらい、うれしいです。このテーマについては、ずっと話し続けなければならないし、闘い続けていかなければならないと思っています。決して既得の権利ではないと思うんです。最初にやるべきことは、この問題について声に出すこと。言論を解放することが大切で、声を上げられずにいる女性たちに勇気を与えて、『あなたたちの話にちゃんと耳を傾けている人がいるんだよ』、『決して恥ずかしいことではないんだよ』という認識を少しずつ広めていきたいです。証言することが悪い反響を呼ぶような状況をなくしていけば、今は後退している法律を再び変えることができるのではないかと思っています」
text nao machida
アンヌの毎日は輝いていた。貧しい労働者階級に生まれたが、飛びぬけた知性と努力で大学に進学し、未来を約束する学位にも手が届こうとしていた。ところが、大切な試験を前に妊娠が発覚し、狼狽する。中絶は違法の60年代フランスで、アンヌはあらゆる解決策に挑むのだが──。
『あのこと』
12月2日(金)Bunkamura ル・シネマ他 全国順次ロードショー
https://gaga.ne.jp/anokoto/
監督:オードレイ・ディヴァン
出演:アナマリア・ヴァルトロメイ『ヴィオレッタ』 サンドリーヌ・ボネール『仕立て屋の恋』
原作:アニー・エルノー「事件」
配給:ギャガ
2021/フランス映画/カラー/ビスタ/5.1ch デジタル/100 分/翻訳:丸山垂穂
© 2021 RECTANGLE PRODUCTIONS – FRANCE 3 CINÉMA – WILD BUNCH – SRAB FILM
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