日常と断ち切った男と子どもの物語〜タナ・フレンチ『捜索者』
すべての居場所がない人のための小説だ。
タナ・フレンチ『捜索者』(ハヤカワ・ミステリ文庫)はアイルランドの自然を背景に、親子以上ほどに年齢の離れた者たちの心が触れ合うさまを描いた物語である。タナ・フレンチの作品はこれまで、三作が翻訳されている。『悪意の森』『道化の館』『葬送の庭』とすべて集英社文庫からの刊行である。トマス・H・クックをさらに重厚にした感じというか、ごく小さな人間関係を中核として、そこにとらわれて自由にならない人間の心理を掘り下げるような内容のものがこれまでは多かった。封印された記憶も重要な主題の一つで、それがなぜタブーになったのか、過去が現在にとってどのような足枷になっているのか、ということを描いていく。当然だが物語の色彩は暗く、苦い後味も残す。その重厚さが好きな読者にはたまらなかったのだが、『捜索者』を読んで驚いた。
まったく作風が違う。
主人公のカルことカルヴィン・ジョン・フーパーは、シカゴからアイルランドに移住してきた男だ。元は警察官だったが、事情があって辞めている。また、妻ドナとの間にアリッサという娘がいたが、これも離婚して一人になった。つまり小説の主人公としてはそれほど特別ではなく、想定される範囲内の過去があるということだ。いや、何も問題がなかったら、わざわざ故郷を捨てて大西洋を渡ることはしないだろう。彼がなぜ職を辞したのか、またなぜ離婚したのか、ということは物語が展開していく中でおいおい語られることになる。
カルが買った家は、ろくに調度品もないようなあばら家だった。修理しながら住むつもりなのである。作業の最中に彼は違和感を覚える。視線を感じたのだ。何者に見張られているのかはすぐに判明する。十三歳のトレイというこどもだ。放置すると悪さをするので、カルはトレイに作業を見せ、おやつを振る舞って警戒心を解かせる。どうやらトレイは、何か腹に一物あってカルに接近してきたようなのだ。
このトレイとカルがぶっきらぼうな言葉のやりとりをし、次第に距離を縮めていくさまが序盤では描かれる。カルにとっては、野性の獣に餌付けをしているようなものだ。フレンチはまったく焦らずにこの模様を綴っていく。村の男たちは、物好きなアメリカ人を好奇の目で見守っている。最初に胸襟を開いて話しかけてきたのはマート・ラヴィンという隣人である。マートは、村人の飼っている羊が何者かによって殺されているという話を延々とする。昔懐かしいキャトル・ミューティレーションである。宇宙人の仕業だと思うか、いや、それはさすがに違うんじゃないの、といった会話が交わされる中で、友好的ながら時によそ者にとっては若干の不快の種にもなりそうな村人の心性が鮮やかに描き出されていくのだ。ここまでは油彩で言うと下地塗りの段階である。上に置いた絵具がちゃんと発色するためにはこれが大事だ。670ページくらいの本文の六分の一を費やして、しっかりと作者は準備をしている。
トレイがカルに近づいてきた理由は書いてしまおう。数ヶ月前に兄のブレンダンが行方不明になった。周りの大人は誰もが、田舎を嫌って家出したのだと考えている。トレイだけが納得していない。ブレンダンが自分に何も言わずに去るはずがないからだ。カルが元警察官だと知ったトレイは、ブレンダンがどうなったのか、真相を調べてもらいたいと頼んでくる。もう警察官ではないカルは当然断る。すると腹を立てたトレイは、カルが作業をしていた机にペンキをぶちまける。不在の間にタイヤの空気を抜く。家に卵を投げつける。その抗議活動に腹を立てたというより、トレイの孤独を理解して不憫になったカルは、自分なりに調べてみると約束する。ただし、何が出てくるかわからない、覚悟はしておけ。トレイは頷く。
これで人捜し小説のプロットが立ちあがってくる。村の中で隠蔽されている秘密が暴かれるという閉鎖的な共同体に関する話でもある。ミステリーとしての本作を成立させているのはその二つのプロットだが、もう一つ重要なのが中断された時間の再生という物語だ。トレイは兄の失踪によって奪われた日常が戻ってくることを願っている。十三歳にとって、家族が欠けることの意味は大きい。カルはカルで、職や家族を捨ててきた自分が、過去のどこかで日常を断ち切ったのだということを潜在的に理解している。物語の終盤で彼は言う。
「おれはそれを探しに来たんだ。小さな世界を。小さな国の小さな村を。そのほうがうんと理解しやすいという気がしていた。それは思いちがいだったかのかもしれない」
『捜索者』は、カルという四十八歳の男性が、自分がいかに世界について知らなかったかということを気づいていく小説だ。だから彼の視線はとても重要で、自然描写が心情と重なり合う部分がたくさんある。たとえば、足を踏み入れると命の危険さえある泥炭地帯が村にあることをカルが知らされる場面がある。底なし沼になる泥炭は、言うまでもなく日常の底が抜けて非日常が見えてしまうかもしれないという予感の象徴だ。カルの家の前にたむろするミヤマガラスたちは、おまえは世界について何も知らないのだぞ、と囁く姿なき隣人たちの代役である。一つひとつの自然描写にはみんな意味がある。その豊かさが素晴らしい。
カルとトレイの物語でもある。トレイについて物語の後半で判明する事実がある。ミステリー的な驚きもあるのだが、カルが世界についてやはり何もわかっていなかったという事実をつきつけるためにその場面は置かれている。そこから、世界の見え方は少し変わっていくのである。カルの美点は、トレイを扱う手の優しさだ。怪我をした山鳥は、いつか空に返してやることを前提として接しなければならない。自分の所有物にしてはいけないのである。相手が傷ついて弱々しく見える存在であっても、決してその尊厳を傷つけるようなことをしてはいけない。自分がものを知らないことに気づいたカルは、おっかなびっくりでトレイに接するようになる。その配慮が好ましい。十三歳をきちんと十三歳として描いた小説であり、四十八歳がそれに対してはどうやって接するべきかをきちんと作者は理解した上で書いている。二人の間に生じる気持ちの交流をぜひ味わって読んでいただきたい。
ミステリーとしては、落としどころがこれしかないという的確なものである。現実をよく見た小説だ。ヒーローは不在で、ただ世界の前で戸惑う者だけがいる。世界を注意深く見て、考えながら歩く者が主人公の小説だ。誰もがカルやトレイに自分を重ね合わせ、ここなら腰を下ろして休むことができる、と思うはずである。ここは安全な場所だから。
(杉江松恋)
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