<ライブレポート>“BADモード”へ突入した宇多田ヒカル――あなたは禁断のゾーン、その奥深い領域へと侵入する

<ライブレポート>“BADモード”へ突入した宇多田ヒカル――あなたは禁断のゾーン、その奥深い領域へと侵入する

 この、ディープでエロティックな輪郭の音に沈んでいたい。これほどまでに甘くとろけそうな、それでいて凛とした音の連なりがあるだろうか。

 ニュー・アルバム『BADモード』のリリースに合わせて、収録曲を含む厳選した11曲をライブで初披露するという宇多田ヒカル史上初の試み。3年8か月ぶりの新作の全貌が明らかになると同時にライブ映像が公開されることもあり、様々な憶測を誘う。近年の極限まで研ぎ澄まされた先鋭的なビートが、どのように再現もしくはアレンジされるのか? 無駄な音が何ひとつ鳴っていないストイックなミニマルさにどの程度遊びが加えられるのか? ループによる複層的な構造を形作る宇多田ヒカル自身の“声”がライブではどのように扱われるのか?『BADモード』のアートワークで提示されたラフな佇まいは、重要なニュアンスとしてライブ表現にも導入されているのか?――宇多田ヒカルは、どこまでさらけ出すつもりなのか?

 息を呑みながら画面を見つめていると、宇多田ヒカルをはじめ、メンバーがリラックスしたムードをまといながら姿を現す。なるほど、ベースのJodi MillinerやドラムのEarl Harvin、キーボードのReuben James、ギター&キーボードのHenry Bowers-Broadbentなど、近年のライブやスタジオ作品で制作をともにしてきたミュージシャンたちゆえに気心も知れているのだろう。そうでなくとも、現在のイギリスの音楽シーンを支える気鋭の演奏家たちだ。一部のメンバーは、2020年10月に行われたサム・スミスのオンライン・ライブでの演奏も印象に残っている。しかし、あちらはAbbey Road Studiosで、こちらはAir Studios。このスタジオは教会を改築したメイン・ホールのLyndhurst Hallが有名だが、今回はもう少しコンパクトな“Studio1”での収録である。

 まず、このStudio1の空間が素晴らしい。大衆に開かれたポップ・ミュージックでありながら、一方で窒息しそうなムードでベッドルーム・ミュージックを鳴らしてきた宇多田ヒカルの揺らぎを、映像監督のDavid Barnardは反射するガラスに映る人物や楽器の姿を積極的に捉えながら演出していく。鏡は昨年リリースされた「PINK BLOOD」のMVでも重要なモチーフとして使われていた。様々なレイヤードで浮き上がってくる多面性、もはやその全てを宇多田ヒカルは肯定しているし、私たちにさらけ出し始めている。リリックと作者を安易に結びつけるのは憚られるが、あえてその点を接続して考えるならば、<誰にも見せなくても/キレイなものはキレイ/もう知ってるから><王座になんて座ってらんねえ/自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ>(「PINK BLOOD」)とまで歌った本人にとって、もはやタブーは存在しない。パンデミックによる環境的要因が生みだした今回の配信ライブだが、結果的にその密室性と万華鏡的な空間演出は、飾らない一面をきっかけにリスナーが“内へ内へ”と迫り作品に対峙するスタンスを思う存分許している、昨今の宇多田ヒカルのモードと奇しくも合致した。

 ライブはいきなり「BADモード」から始まる。しかし、音楽は私たちが思い描いていた“BAD”の安易な解釈を早速裏切る。予想に反してリラックスした空気のなかで奏でられるそれは、非常に具体的描写を帯びたリリックが、愛ゆえに苦しいという“ポジティブなBAD”とも言うべき躍動的な意味を付与していく。揺れる楽器隊、軽快なグルーヴ。特に Soweto Kinchのサックスが印象的だ。思わず曲が終わると同時に宇多田ヒカルは彼の ほうを一瞥し、微笑する。うまくいっているときのわずかな照れ隠しを含んだ笑い。「このヴァイブスは間違っていない」と言わんばかりの、幸福感に満ち満ちた空気。

 続いて――あのイントロが流れる。「One Last Kiss」の静謐な、それでいて胸いっぱいに広がる狂おしく甘美な音。Ruth O’Mahony Bradyが叩くキーボードの鍵盤が、深く青く塗られた爪が、たしかにあのフレーズを奏でている。想像していた以上にほとんどの音が楽器によって再現されていることに驚く。曲の終盤、宇多田ヒカルは<Oh oh oh oh oh… >というリズム・ボーカルと<忘れられない人/忘れられない人>というメロディ・ボーカルを交互に歌い分けつつ、最終的には自らがキーボードを弾き、複層的なグルーヴに参加する。踊る指使いによって“KOMPLETE KONTROL A25”が揺れる。スタジオ全体が 没入感に包まれる。凄まじい。あの「One Last Kiss」が、ライブ演奏のダイナミズムによって新たに産み落とされている。

 そう、“活きて”いるのだ。Air Studiosと言えば、幽玄でエピックな音の仕上がりを狙って使うミュージシャンが多いイメージだが、もちろんそういったある種の壮大な音を包み込む観念性を誇りながらも、よりシャープでモダンな息吹きがいきいきとうねり溶け合っている。こんなにもクラブ・ミュージック・ライクな音をエレガントに、躍動的に鳴らすことができるのは、バンド・メンバーやエンジニアのSteve Fitzmauriceの手腕もさることながら、このスタジオが有している技術ならではのパワーもあるのだろう。

 活きた音は、次の「君に夢中」でさらに強調される。「One Last Kiss」から続くA.G.Cookのプロデュース曲ならではの過剰かつ淫靡なベース音は、ライブでも異常性をもって鳴らされ、そこに宇多田ヒカルは相当な難易度であろうリズムを乗せるべく、丁寧に丁寧に歌唱をつなげていく。同時に、パーカッションを叩くWill Fryのパフォーマンスに 息を呑む。あの音がこうやって鳴らされるのか、という種明かしを含んだ表現が、音の迷路のような螺旋構造へと私たちを誘う。それは続く「誰にも言わない」「Find Love」も同様で、パーカッシブなリズムと電子音が極めてオーガニックに融合している。メンバーもかなり手応えがあるようで、演奏後「OK!」の仕草。特に「Find Love」のピシッと規律正しく叩かれるタイトなドラムはバンドの演奏をグッと引き締めており、かつ残響が密度の低い音のすき間で鳴ることで優雅な快感を生む。近年の音数の少ない曲構造がこのうえなく効果的に活かされている。

 中でも、トライバルな音色を奏でるパーカッションは今回のライブの大きな特長の一つだろう。Utada名義の曲「Hotel Lobby」「About Me」もそういった側面からセレクトされているに違いない。ただ、それらはいわゆる“ワールド・ミュージック”としての楽曲の魅力を浮き彫りにするという単純な話でもない。本ライブの表現は、スタジオ音源を忠実に再現しながらも、音色を“どう鳴らすか”“どう響かせるか”という質感のほうへ繊細な意識が向けられており、そういった意味でパーカッションが寄与している効果は非常に大きい。「Time」「Face My Fears」「Beautiful World」といった曲群も同様である。

 ライブのハイライトは「PINK BLOOD」かもしれない。その冒頭で、宇多田ヒカルは新鮮なニュアンスで「PINK BLOOD」という歌い出しを聴かせた後、ここでもリズム・ボーカルとメロディ・ボーカルの双方を行き来しつつ、曲の軌道を描いていく。何かを振り絞るかのように、どこか苦しそうに、それでいて堂々と、この日初めて見せる表情で繋げられる音程。本人がしばしば語る「メロディ自体をリズムとして捉えている」という発言が思い出される。一本走っているメインのリズムに対して、歌によって軌道を描くもう一つの秩序。この日のライブ全体を通して、歌い込むというよりは、終始リズムを生むかのごとくフロウを表現していた姿勢が印象的だった。リズムの生成とは、内なる律動に耳を澄ましながら、涌き出る喜怒哀楽をキャッチし、身体に還元する行為である。ゆえにこのライブは、私たちが禁断の奥深い領域に侵入することを許された時間とも言えるだろう。吹っ切れた宇多田ヒカルは、いよいよ新たなモードに入った。これは、今まで入ることを許されなかったゾーンへ、ついに私たちが踏み入ることになった歴史的な瞬間である。

Text by つやちゃん

◎公演情報
【Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios】
2022年1月19日 配信ライブ
※1月23日までアーカイヴ公開中

◎リリース情報
アルバム『BADモード』
2022/1/19 RELEASE
※CD発売は2月23日
初回生産限定盤:CD+DVD+BD 6,800円(tax in.)
通常盤:CD 3,300円(tax in.)

<CD収録内容>
01. BADモード
02. 君に夢中
03. One Last Kiss
04. PINK BLOOD
05. Time
06. 気分じゃないの (Not In The Mood)
07. 誰にも言わない
08. Find Love
09. Face My Fears (Japanese Version) / 宇多田ヒカル & Skrillex
10. Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー
[Bonus Tracks]
11. Beautiful World (Da Capo Version)
12. キレイな人 (Find Love)
13. Face My Fears (English Version) / Hikaru Utada & Skrillex
14. Face My Fears (A.G. Cook Remix)

<DVD/BD収録内容>
・Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios
01. BADモード
02. One Last Kiss
03. 君に夢中
04. 誰にも言わない
05. Find Love
06. Time
07. PINK BLOOD
08. Face My Fears (English Version)
09. Hotel Lobby
10. Beautiful World (Da Capo Version)
11. About Me
12. Face My Fears (Japanese Version) [Bonus Track]
・Behind The Scene “Live Sessions from Air Studios“
・Music Videos
01. Time
02. One Last Kiss
03. PINK BLOOD
04. 君に夢中
05. BADモード

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