彼らが過ごした時間と選び取った未来〜音無白野『その日、絵空事の君を描く』
図工や美術が学校のカリキュラムから消えた世界。健康診断は血を数滴抜かれるだけで痛みもなくすんでしまうし、タブレットは視線で操作するのが普通。主役はふたりで、東江夏輪と佐生梛という同級生だ(小学校は一緒だが中学は別、高校で再び同じ学校になった)。物語の冒頭、道ばたに捨てられた猫を見なかったことにして通り過ぎようとした東江は、その猫にブランケットを運んできた佐生とすれ違う。佐生が拾ってくれるならと立ち去ろうとした東江は、背後で彼女が倒れる音を聞く。近づいて声をかけると、驚いた佐生から「……東江くん。……どうしてここに?」との言葉が。いままで会話した記憶のない彼女が自分の名前を覚えていることに驚く。見るからに体調が悪そうな佐生を見かねた東江は、猫とともに彼女を一晩自分の家に連れて帰る。しかし、翌朝猫は亡くなっていた。佐生がその亡骸を見たとき、彼女は「ごめんね」とつぶやいた。その瞬間、何かが崩れるような衝撃が…。
ここで語り手がチェンジし、入院中で病室にいる佐生が、自分の不可解で残酷な特異体質について語り始める。佐生の身に起こってしまうのは、ダムナティオ・メモリアエ。古代ローマに同様の刑があり、その言葉が意味するのは”記憶の破壊”。彼女が人や動物の死に立ち合った場合、その誰かはこの世に存在しなかったことになってしまうのだ。恩師だった絵画教室の先生が存在した痕跡も、どこにも残っていない。すると、学校からの連絡物などを運ぶよう担任から頼まれた東江が、佐生の病室にやって来る。彼は、いままで会話した記憶のない彼女が自分の名前を覚えていることに驚く(ふたりが猫を助けようとしたことも、その猫が亡くなったことも、東江の記憶には残っていないから)。佐生は「絵は……もういいかな」と語り、東江にタブレットを渡して、それを使って絵を描くようアドバイスする。東江は佐生に絵を教わろうと考え、その後も病室に彼女を訪ねるようになる。「佐生に考え直してもらう」ためにも。
東江もまた、”カメラアイ(瞬間記憶能力)”を持ち、高い画力を持っていた。小学生のときに見た佐生の絵に刺激を受けて、自分でも趣味で描き始めたと認識している。しかし、すでに失われてしまった世界には、別の過去も存在した。それは佐生の心の中にのみ残っているもの。けれど、絵画教室の先生や拾った猫がいなかった世の中に再構築されてしまっても、東江は絵を描いていたのだった。そのことを知り、佐生はどれだけ喜んだことだろう。もしかしたら、彼女が特別な存在であったことも、東江の心のどこかに残っていたのではないか…記憶としてよみがえらせることはできなくても。読者である自分も、安堵に似た気持ちを覚えた。
しかし、佐生は病に冒されていて、残された時間は少ない。そのことは物語の早い段階で明かされる。東江にとっても大切だった人を奪ってしまって申し訳ないとずっと思い詰めていた佐生が、絵を通じて再び関係を築けたのは大きな喜びであったに違いない。それでも、彼女は近い将来に訪れる自分の死の瞬間に向けて、果たして実現可能なのかもわからない計画を立てていた。なんとかつらい事態を回避してほしいと思いながら、私は読み進めた。確かに世界の崩壊は佐生によって引き起こされるものかもしれないが、彼女はまったく悪くないのだから。「だって、これはいわゆるSFでしょ? もっとのんきなラストを目指して、つじつまを合わせることだって可能なんじゃないの?」と願わずにいられなかった。
それでも、たとえ自分に非はなくとも、彼女は自分の人生を懸けて償おうとしていた。佐生は真摯で高潔な少女であり、東江も彼女の思いをすべて受け止めるほど心優しい少年だった。彼らが違う道を選択することもできたのではないかと思いつつ、それでもこの幕の引き方しかなかったのかなとも思う。傷つきやすくそれでいて決して折れることのない心を持った若者たちが、ともに過ごした時間と彼らが選び取った未来がどのようなものだったか、ぜひお読みになってみてください。
(松井ゆかり)
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