第2回将棋電王戦 第1局 電王戦記1.2 (筆者:夢枕獏)
── 米長さんのことから ──
1
何から書きはじめようか。
迷っているのは、米長邦雄の『われ敗れたり』を読んでしまったからである。
本来であれば、今日、本日の朝からこの原稿を書き出す予定であったのだが、半日かけてこの本を読んでしまったため、この時間――二〇一三年三月二十六日の午後五時にこの稿を書き出すことになってしまったのである。
三日前の三月二十三日のこの時間、ぼくは千駄ヶ谷の将棋会館にいた。第二回将棋電王戦の第一局目を観戦するためである。
前回の対戦も、二〇一二年一月十四日に、同じこの将棋会館で行われている。
米長邦雄永世棋聖対最強のコンピュータ将棋ソフトボンクラーズ。この勝負で米長邦雄が敗れた。
今回は、格闘技風に言うならば五対五マッチ。
コンピュータ五台対プロ棋士五人。
団体戦である。
一週間ごとに一局ずつ、五局の勝負となる。
一局目、阿部光瑠四段対竹内章氏の習甦。
二局目、佐藤慎一四段対ponanza。
三局目、船江恒平五段対ツツカナ。
四局目、塚田泰明九段対Puella α。
五局目、三浦弘行八段対GPS将棋。
このうち、一局目と五局目を観戦して観戦記を書くのがぼくの役割であった。
観戦を終えた時にはすでに原稿の構想はできあがっており、どう書くかという文体まで決めていたのだが、今日『われ敗れたり』を読んで、これまで考えていたことが、みんなぶっとんでしまったのである。
白紙。
まっしろ。
その中で、ぼくが考えていたのは、この本を書いた米長邦雄のことを書かねばならないということであった。まず米長邦雄のことを書かねば、この稿を進めることができないと思ったのだ。
おれはプロだよ。
書くことのプロ。
要求された枚数で、必要なこと、思ったことは書ける。
だから、いきなり、この文章を普通の観戦記としてスタートさせることだってむろんできたのだが、この米長邦雄の本を読んだ時に。それができなくなってしまったのである。
落涙。
おれは泣いたよ。
米長邦雄に泣いたのだ。
それで、まず、おれは、「資格」という言葉から、本稿を書き起こしたいと思ったのだ。
つまり、これまでは前書き部分だ。
次からが本文となる。
2
人の前に立って、何ごとかを為すということには、資格が必要だと思うのである。
国やお上が発行する免許のことじゃないよ。
そんなのは、たかが紙一枚のことだ。
ここで言う資格というのは、そういうものではない。
ましてや、金や財産なんてことではさらさらない。
男でも女でもどちらでもいい。
ひとりの人間が裸になった時、その人間が、その肉体に有しているものだ。その人間が、その精神とたたずまいの中に棲まわせているもののことだ。
人の前で歌うこと。
人の前で演技をすること。
ボクシングでも、MMAでもいい、人の前で闘うこと。
そういう人間には、自ずと資格がなければならないということだ。
人の前に立つために、何をしたか。
どれだけのことをそのためにやってきたのか。
「自分は、長い間、試合のために稽古をするのだと思ってきました。でも、それは違うのだということがわかりました」
ぼくにそう言ったある格闘家かいた。
「でも、逆だったんですね。日々、一日一日、稽古のために自分を追いつめてゆく、こういう充実した日を過ごすために試合があるんですね」
なんというよい言葉であろう。
なんというよい覚悟であろう。
”人前”で伝わりにくければ”神の前”でもいい。
神の前に立った時、顔をあげていることができるかどうか、そういうことだ。
それが資格だ。
米長邦雄にはそれがあったということだ。それを言いたかったのだ。
人の前で、将棋を指す。
コンピュータと対局する。
米長邦雄は言った。
「羽生善治対コンピュータの対局料としては七億程度は必要だ。」
それが、この自分、「米長旧名人」なら、一000万でやりましょう。
ああ、米長さんだなあ、これ。
それが実現した。
そして、米長邦雄は敗れたのである。
資格の話を続けたい。
米長邦雄にはあったその資格が、果たしてこの自分にはあるのか――本を読んでぼくの胸に去来したのは、その想いだったのである。
その資格というのはつまり、コンピュータと人が将棋を指す現場を見、それを語ってもいいという資格のことだ。
やる方に資格が問われるなら、それを観て書く方にも、その資格が問われてしまうのである。
米長さんとは、何度か、会ったことがある。
一度は、舞台の上で対談をした。
一度は、仲間の作家三人と米長さんが、三面指しをするのを現場で観戦したこともある。
「脳がウニになるまで考えて下さい」
その時、米長さんはそう言った。
ぼくが時々、小説のアイデアをどうひねり出すのかと問われて、「考えること」
「脳がとろけるまで」
そう答えるのは、米長さんのこの言葉が頭の中にあるからだ。
ただ、凝っと待っていると、アイデアが天からほろりと落ちてくる――そんなことは絶対にない。ただ、ひたすら考える。そのことのみを考えて考えて、脳が煮えて、溶け、鼻から流れ出しそうになる。このまま考え続けたら頭がおかしくなってしまうんじゃないか。怖くなる。
その時、さらにその恐怖の先へ一歩を踏み込んで、はじめての人は、そこにあるアイデアという果実をようやく手にすることができるのだ。それができるかできないか。それがプロとアマチュアを分ける場所だとぼくはよくわかっている。
だから米長さんに共感をした。
米長さんのことでいい話を思い出した。
その三面指しの途中、
「みなさん、一度だけ待ったありにしましょう」
米長さんはそう言った。
その時、三面指の作家のひとりであり、皆さんも知っている某氏は、おそるべきことを言った。
「では米長さん、申しわけありませんが、今の米長さんの手を待ったにしていただけませんか――」
米長さんは、このとんでもない申し出を笑って受けとめ、
「では、今の手は待ったということで――」
このように言ったのである。
後にも先にも、天下の米長邦雄が待ったをしたのはこの時ただ一度きりであろう。
米長さんは、待ったをして、別の一手を指したのだが、その手はさらに厳しい一手となったのは言うまでもない。
我々のようなおそれを知らない作家たちを、この時、米長さんは、優しく、しかも楽しく遊ばせてくれたのである。
また、ある時は、当時名人であった五十二歳の米長邦雄に、若き二十三歳の羽生善治が挑戦した名人戦の、第四局と第六局を観戦したこともあった。
この六局目で、米長邦雄は羽生善治に敗れ、名人位を失ったのである。
対戦している米長邦雄の顔が、疲れ果ててゆく。
あれほどきちんとしていた着衣が乱れ、髪が乱れ、背が曲がってゆく。
何十手か前で、すでに自分の負けは見えている。
その後も指したのは、かたちを整えるためだ。
負けを自分の心に言いきかせるための時間だ。
脳は溶けて、盤面にぼろぼろとこぼれ出す。
ああ――
あの時の負けた米長さんには、とてつもない色気があった。
もの凄まじい色気だった。
そうして、米長邦雄は負けたのである。
その現場を、ぼくは見ている。
ああ、この稿が、とりとめもないものになっているのをぼくは承知で書いている。
それをお許しいただきたい。
そもそも、将棋のプロ棋士というのは、とてつもない天才である。
小学生の頃に、大人のアマチュア四段、五段と指して負けない。そういう少年が将棋の奨励会に入るのだ。
能力のある者がない者が、どんぐりの背くらべをするのではない。
子供の頃からの天才が、その天才を比べっこしているのが奨励会なのである。
その中から、プロ棋士になるような人間は大天才であり、さらにA級の棋士ともなれば大大天才であり、名人位にある棋士は超大天才なのである。
「兄きは頭が悪かったので東大に行きました」
と米長さんが言ったというのは、有名なエピソードである。
また、あるプロ棋士は、電線からいっせいに飛びたった、数百羽の雀の数を、たとえば、
「三百二羽」
と、正確に数えることができたという。
飛んでゆく雀を、一羽、二羽と数えてゆくのではない。空に散らばった雀をひと睨みする。
その光景を、写真のように頭の中に焼きつけてから、眼を閉じ、その脳内の写真に映っている雀の数を数えるのだという。
そういう棋士とコンピュータが、将棋というゲームで闘う。
これは、もはや、神々の闘いである。
それに、心踊らさずにおられようか。
そうだ、資格の話だった。
それには、まず、ぼく自身のことから、次の稿を書きはじめなければならない。
・[ニュース]第2回将棋電王戦 第1局 電王戦記3.4.5
http://news.nicovideo.jp/watch/nw567736
◇関連サイト
・[ニコニコ生放送]将棋電王戦 第1局 阿部光瑠四段 vs 習甦 – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv118753162?po=newsgetnews&ref=news
・[ニコニコ生放送]将棋電王戦 第2局 佐藤慎一四段 vs ponanza – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv118754300?po=newsgetnews&ref=news
・[ニコニコ生放送]将棋電王戦 第3局 船江恒平五段 vs ツツカナ – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv118755562?po=newsgetnews&ref=news
・[ニコニコ生放送]将棋電王戦 第4局 塚田泰明九段 vs Puella α – 会員登録が必要
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・[ニコニコ生放送]将棋電王戦 第5局 三浦弘行八段 vs GPS将棋 – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv118757933?po=newsgetnews&ref=news
・第2回将棋 電王戦 HUMAN VS COMPUTER – 公式サイト
http://ex.nicovideo.jp/denousen2013/
ウェブサイト: http://news.nicovideo.jp/
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