抜群におもしろいジェローム・K・ジェロームの幻想奇譚短篇集『骸骨』

抜群におもしろいジェローム・K・ジェロームの幻想奇譚短篇集『骸骨』

 ジェローム・K・ジェロームの短篇集が翻訳されるなんて。

 嬉しくて嬉しくてその事実を何度も口に出して噛みしめた。

 だって、ジェローム・K・ジェロームなのだ。丸谷才一訳『ボートの三人男』は愛読書の一つで、何度も読み返している。三人の男と犬がテムズ川を旅するというだけの小説で、実に笑える滑稽小説になっている。作者はこれを、テムズ川流域の歴史を綴る地誌小説のようなつもりで書いたという。それがどうしてこうなった、と言いたくなるような内容だ。あまり好きすぎて、続篇のThree Men on the Bummelも原書で買って持っている。小説の一部が「自転車の修繕」として浅倉久志編『ユーモア・スケッチ傑作展』(早川書房)に収められている。知ったかぶり男が知人の自転車を直してやろうと言ったがために惨事を招くという話だ。素晴らしい。林家彦いちあたりに落語化してもらいたい。

 そのジェローム・K・ジェロームだ。しかも幽霊小説を中心とした幻想奇譚短篇集であるという。『骸骨』。これを読まないと嘘だ。抜群におもしろいのだから。いや、読まなくてもわかる。だってジェローム・K・ジェロームなのだもの。

 巻頭の「食後の夜話」を読んだだけでその判断が間違っていなかったことを確信した。これは幽霊の出てくる滑稽小説で、英国では「幽霊物語というものは、いつもクリスマス・イヴになされるものだからだ」ということをエッセイ風に綴った「はじめに」の章だけで期待がどんどん膨らんでくる。クリスマス・イヴの幽霊物語というとチャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』がすぐ頭に浮かぶ。「不運を予告する」幽霊たちがクリスマス前夜の館に押しかけてくるさまを読者に想像させておいて、作者は本題に入る。語り手の〈僕〉は伯父の家でクリスマス・イヴを過ごすことになった。ウィスキーやらジンやらで作ったパンチでへべれけになった客たちはこうせねばならぬという強迫観念に背中を押されるようにしてやはり口々に幽霊物語を始める。そして伯父が言うのだ。「実はこの館には、つまり私たちがまさにいま坐っているこの館には、幽霊が出るんだ」と。さあ、〈僕〉はどういう態度に出るか、というお話である。

 巻末の訳者あとがきによれば、本篇は『ボートの三人男』(1889年発表)の2年後に書かれた、つまりジェロームが作家としての名声を得た後の作品なのだそうだ。さもありなん。書きぶりが軽快で非常に素晴らしい。『ボートの三人男』は、旅をする男たちが次々に話をするという形式の、短いエピソードの連続で構成される小説である。後に『吾輩は猫である』を書く夏目漱石もロンドン留学中に同書を読んだと思うのだが、どうなのだろうか。

 こうした形式の小説をジェロームは他にも書いている。1893年のNovel Notesがそれで、一部が本書にも収められている。アンソロジー『フランケンシュタインの子供』(角川ホラー文庫)に「ダンシング・パートナー」の訳題で収められたことがある「ダンスのお相手」と、表題作の「骸骨」だ。前者はある発明家の思いつきがとんでもない事態を引き起こしてしまうという物語で、舞踏会の場面が実に印象的である。後者は漠然としたイメージだったものが明確な像を結ぶと急激に恐怖の感情が募ってくるというタイプの怪奇小説だ。その幕切れのあとに付け加えられた、語り手のぼんやりとした呟きが読後感を深めるというか、読者の味わった感情を増幅しているように思う。ネタばらしにはならないので、ここに引用することをお許し願いたい。

――最初に沈黙を破ったのはブラウンだった。僕にブランデーはあるかと訊いたのだった。寝る前にブランデーを少し飲んだ方がいいような気がすると云った。ジェフスンの話の最大の魅力の一つに、いつもブランデーを少し飲んだ方がいいような気分にさせてくれるというのがある。

 ね、いいでしょう。話の結び方も上手いのだが、ジェロームは書き出しの一行がいつも唸ってしまうほどいい。たとえば「牧場小屋の女」はこうだ。

――野性の馴鹿(となかい)を追跡することが、信じ込みやすい旅行者がノルウェイのホテルのベランダで話しているときに思いがちなほど、わくわくする気晴らしになることは滅多にない。

「チャールズとミヴァンウェイの話」はこう。

――この物語を読んで、説得力のないところが欠点だと思う人は多いだろう。

 使われている技巧は異なるが、どちらも小説の出だしとしては完璧なのではないだろうか。ちなみに前者は、うっかり遭難してしまったハイカーが山小屋でひとつづりの奇怪な手紙を見つけるという話になり、後者は幽霊の出てこない幽霊物語と言うべき文字通りの奇譚となる。

 収録作の中で最も奇妙で、夢を見ているような気分から読後もずっと抜けきれなくなるのが「人影」だ。「残念ながら自分にはいささか陰鬱な傾向があるに違いない」で始まる最初の段落にはぜひ目を通していただきたいし、それで何か感じるものがあった方は間違いなくこの『骸骨』という本に呼ばれている。寓意小説のようにも見えるし、家族の暗部を描いた回顧譚のようでもある。なんとも不思議な小説なのだ。

 ここまで紹介してきたとおり、全17篇は作風がばらばらで、幻想風味や幽霊物語の要素といった共通点はあるものの、まったく違った楽しみを味わえる。実に豪華な短篇集なのだ。ご一読をお薦めする。読めば必ずジェローム・K・ジェロームが好きになる。そうしたらぜひ出版社に、もっとジェローム・K・ジェロームを訳してください、というお手紙を。特にThree Men on the Bummelをお願いしますよ。

(杉江松恋)

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