望んで行動したヴィヴィアンの人生〜『女たちのニューヨーク』
若さだけを頼りに無鉄砲な日々を過ごしていた主人公が、大きな挫折を経験し、紆余曲折を経て真実の愛を見つける。こんな風に要約することが可能な物語が、いままでどれほどたくさん書かれてきただろう。しかし、「また若い女の成長小説か」と読む前から理解したような気持ちにならずに、どうか手に取ってみてほしい。決して簡単な一文でまとめられるような内容ではなかったと、読み終えたあなたは知るに違いないから。
物語の冒頭、まだ名前も明らかになっていない語り手のもとに、アンジェラという人物から手紙が届く。アンジェラは「彼の娘」であり、「母親が亡くなった」と知らせて寄越したのだった。「ヴィヴィアン。母が亡くなったいまなら、あなたは心おきなくわたしに語れるのではないでしょうか。あなたが、わたしの父にとって、どういう人だったのかということを」というアンジェラの問いかけに対し、語り手=ヴィヴィアンは「わたしにとって彼がどういう人だったのか」なら語れると考え、実行した。そう、本書はヴィヴィアンからアンジェラへの長い長い返信なのである。
1940年の夏、ヴィヴィアン・モリスは19歳だった。名門のヴァッサー女子大を放校になった娘を持て余した裕福で厳格な両親は、ヴィヴィアンをニューヨークへ送り出す。ニューヨークには、両親たちとそりの合わない彼女の叔母・ペグが住んでいた。ペグは、マンハッタンのミッドタウンにあるリリー座という劇場を経営している。舞台の魅力にとりつかれた愛情深いペグ、規律を重んじる有能な秘書のオリーブ、美しきショーガールのシーリアやグラディス…。リリー座には、それまでの彼女の人生では出会ったことのないような人々がひしめいていた。祖母によって裁縫を基礎からたたき込まれていたヴィヴィアンは、衣装係として働くことに。そして、華やかで猥雑で享楽的な都会での日々に、瞬く間になじんでいく。
やがて、イギリスで華々しい成功を収めていた舞台女優であるエドナ・パーカー・ワトソンが、夫のアーサーとともにリリー座に転がり込んでくる。アメリカ逗留中にイギリスにある自宅が爆撃に遭ったため、彼らは帰る場所を失ったのだ。ヴィヴィアンは初めて会った瞬間から、エドナに夢中に。エドナと旧知の仲のペグは、才能あふれる大女優をリリー座の舞台に立たせたいと計画する。ペグの別居中の夫・ビリーがハリウッドから飛んできて脚本を書き上げた「女たちの街」は、大成功を収めた。しかし、ほどなくして舞台以上にニューヨーク中の人々の注目を集めることになる事件が起きる。
正直なところを打ち明けると、大問題が発生するまでの展開は、興味深くはあるものの少しばかりイライラさせられもした。ヴィヴィアン、あまりにも考えなしではないか(要するに、クラスの一軍が考えることは陰キャには理解できない、ということだ)。しかしながら、実家に帰っておとなしく堅実な生活を送っていたヴィヴィアンに、もう一度運命の扉が開かれた…。
多くの人に共通する幸せな人生のイメージというものは、確かにある。結婚して、2人くらいの子どもを持ち、庭のある家に住むといったような。けれど望んでも叶わない人もいるし、そういったものにそもそも重きを置かない人だって存在する。例えばヴィヴィアンの型破りな人生は、現代においてさえ多数派の支持を集めそうだとは思えない。けれども、幸福の形は人それぞれだ。幸せをつかむために心から望んで行動すればなんらかの形で突破口は見出せることを、ヴィヴィアンから教えられた。物語の前半では、鼻持ちならない愚かな女の子に見えていた彼女から。
もうひとつこの小説で見逃せないのは、戦争が人々の暮らしに落とした影だ。「カミカゼ」「ヒロヒト」といった記述に、75年ほど前確かに日本はアメリカと戦争をしていたという事実を突きつけられる。私は約20年前、アメリカのサンディエゴに住んでいた。カリフォルニアはもともと移民の多い土地柄で、流ちょうでない英語にも寛大な地域だ。自分が日本人であることをはっきりと責められたのは、アメリカに住んでいる間に一度だけ。「父親が日本兵に殺された」と語る小さな雑貨店の女性店員に、「日本人に売るものはないから出て行ってくれ」と言われたときだけだ。いま私があの女性に再会したら、どんな話をするだろう。私が何を言ったとしても、彼女が考えを変えることはないかもしれない。けれど、私の方で彼女を受け入れることはできる。憎しみに基づかない、新たな関係性を目指して。”できると信じてやるしかない、できるかどうかでなく”という、ペグの教えに従って。
ところで、いったいアンジェラとは誰だったのか。意外な真相が明らかになったときの驚きと、さらに読み進めるにつれて心を満たしていった喜びが忘れられない。この手紙を書いたとき、ヴィヴィアンは90歳近くだったはず。私がその境地に達するまでに、あと何十年も残されているではないか。ここまでの人生でいろいろなものを失ったとしても、手痛い失敗を繰り返してきたとしても、新たにつかみ取れるものもあるという考え方を歓迎したい。人間はいくつになっても楽しくやれるし、成長できるはず。まだまだ、まだまだだ。
(松井ゆかり)
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