過去にとらわれた男の旅〜遠田潤子『緑陰深きところ』

過去にとらわれた男の旅〜遠田潤子『緑陰深きところ』

 主人公の三宅紘二郎は、40年以上前に大阪・ミナミの外れで「河童亭」というカレー店を開いて、すでに70歳を過ぎた。現在は廃医院になってしまった、実家の三宅医院にひとりで住んでいる。平成最後の年の3月20日、彼のもとに、兄・征太郎から葉書が届く。紘二郎は昔、征太郎の婚約者であった睦子と恋仲になった。しかし結局、睦子は征太郎の妻に。だがその数年後、睦子と娘の桃子、そして同居していた睦子の父・草野は殺された。征太郎が自分で110番し、家族を手にかけたのは自分だと自供したのだった。絵葉書の文字を見て、抑えていた激情があふれ出た紘二郎。「兄さん、今からあんたを殺しに行くよ」と…。

 絵葉書に書かれていた住所である大分・日田までの道は、赤いコンテッサに乗って行かなければならなかった。イタリア語で「伯爵夫人」の名を持つクラシックカーは、紘二郎がいつか睦子を乗せて走ると約束した車。現在すでに生産されていないこともあって、自宅に届くまでに2か月近くかかってしまった。やっと納車されたその日に日田へ向けて走り出した紘二郎は、旅の出発地点と決めていた四天王寺で金髪の若い男と出会う。蓬萊リュウと名乗るその男は、紘二郎がコンテッサを買った中古車ディーラーの店長だったと語った。その車には乗るなと繰り返すリュウを一度は振り切ったものの、なぜかふたりで旅を続けることになってしまう。

 リュウはちぐはぐな男だった。店長をしていたのに現在はホームレスだと言ったり、謎めいた部分があるかと思えば妙に人懐っこかったり。結果として、無愛想で他人から警戒されがちな紘二郎をうまくサポートしてくれて、リュウがいるおかげで物事がいろいろとスムーズに運ぶことに。突っかかる紘二郎をリュウがへらへらと受け流していくような会話を続けるうちに、お互いの境遇も少しずつ明らかになっていく。

 紘二郎と睦子が初めて出会ったのは、高校に入学した年。太平洋戦争に従軍した紘二郎たちの父・三宅医師は、草野一等兵に命を救われた。睦子の父である。三宅をかばったことで、草野は傷痍軍人の中でもかなりひどいと思われるような傷を負ったのだった。恩義を感じた三宅は草野に多大な援助をし、ふたりは将来的に自分の子どもたち同士を夫婦にしようという約束を交わした。紘二郎と睦子は同い年、征太郎は彼らの5歳年上。成績優秀かつ品行方正で容姿もよい跡取り息子である征太郎と睦子を娶せるのがよいだろうと、両家の間で話がついていた。

 しかし、相愛の仲になったのは紘二郎と睦子だった。生前にはっきりと自分の意思を表明できなかった紘二郎は、父の葬儀の場で「睦子と結婚させてください」と征太郎や草野に頭を下げる。しかし、その発言は猛反発を買った。絶対に認めないという家族たちの警戒を解くため、あきらめたふりをする紘二郎と睦子。そして、高校を卒業した睦子と征太郎の結婚式の当日、ふたりは手に手を取って駆け落ちを決行し、くじで決めた行き先の岡山・倉敷を目指した…。

 好きな相手と結ばれたい。そんなささやかな願いを叶えようとしたことが、周囲を巻き込み大きな悲劇を生んでしまった。しかし、誰も傷つけないために、ただ自分の心を押し殺して意に染まない結婚を受け入れればよかったのだろうか。遠田作品はどれもそうだと思うが本書もまた家族の物語であり、「子の幸せを願って」という名目のもとに子を縛りつける親たちの姿が描かれている。子の気持ちなど無視して、自分たちの負い目や利益のために子ども同士の結婚を決めてしまった三宅や草野。自分がかわいがりたいときだけかわいがるという不安定な愛情で、我が子に苦痛を与えたリュウの母親。とはいえ、自分は我が子に対して正しいことだけをしている、と言い切れる親がどれだけいるだろうか。こうすれば子どもは必ず幸せになれる、というたったひとつの方法でもあれば、誰だってそうするだろう。そんな必勝法みたいなものが存在しないからこそ、すべての親が迷い悩みながら子育てしているのだ。

 それは親子に限らず、すべての人間関係にいえることに違いない。父の生前からもっと自分たちの気持ちも考えてくれと伝えられていれば。婚約者と弟が愛し合っていることを受け入れられていれば。世の中は自分たちだけを中心に回っているのではないことに目を向けられていれば。でもそういったことは往々にして、後から思い返してみて初めて気づけることだ。人生は後悔の連続で、犯した罪が消えることはない。

 しかし、紘二郎はリュウと出会うことができた。わかり合えないまま二度と会えなくなってしまう人もいる。決して償えないこともある。紘二郎も、決して戻らない時間に流されて年老いていくはずだった。しかし、リュウとの出会いが紘二郎を変えた。心から愛した人とは幸せになれず肉親に対しても取り返しのつかないことをしてしまった、けれどどんな過去を背負っていても思いやりの気持ちを他者に向けることは可能なのだと、遠田作品は教えてくれる。紘二郎のように苦しみの中で生きてきた人々が、少しでも光明を見出せますように。

(松井ゆかり)

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