読後感さまざまの将棋短編小説集〜芦沢央『神の悪手』
近年将棋は安定した人気を保っているが、プロ棋士として活躍することがどれだけたいへんなことか理解している人は少ないだろう(と、偉そうに言えるほどには私自身も理解が足りていないのだが)。まず、プロ棋士には基本的に年間4名しかなれない(半年ごとに三段同士で戦って決定するリーグ戦の成績上位者2名ずつ。規定を満たせば、それ以外にもプロ入りできる場合もある)。さらに年齢制限もあり、26歳までにプロになれなければそこで終わり(プロ棋士の養成機関である奨励会を退会)となる(こちらも規定を満たせば、延長できる場合もある。ごくまれに、年齢が上がってからでもアマチュアからプロになれることも)。10代ですでに2つのタイトルを持つ藤井聡太二冠や一時は七冠を保持していた羽生九段など、中学時代にプロ入りを果たしたような棋士はレア中のレアケースなのである。
『神の悪手』の表題作は、プロ入りをかけた三段リーグにここまで9期在籍し、今期もすでに昇段の可能性はなくなった岩城啓一が主人公。四段昇段(プロ入り)の条件である上位2名となりそうなのは、三段リーグ1期目という異例の早さで暫定1位の座についている宮内冬馬、同2位に並ぶ山縣伸介と村尾康生の3名に絞られている。宮内は最終1局を残して15勝2敗、山縣と村尾は残り2局で13勝3敗だ。宮内が最終局で勝ち星をあげたとしても、山縣と村尾も残り2勝すれば、3人が勝ち星の数が同数になる。その場合は前期の成績に基づいて山縣・村尾が昇段する、といった混戦状態となっている。いずれにしても、3人とも絶対に負けられないという状況。
啓一が最終2局で当たるのは、宮内と村尾。その村尾が対局前日に啓一を訪ねてくる。村尾は、規定により延長された年齢制限内の最後の昇段のチャンスが今期だった。村尾のウィークリーマンションに場所を移して持ちかけられたのは、村尾自身が編み出した「対宮内戦の戦略」を教えるというもの。必ず明日勝ってくれ、そうすれば自分は勝ち星で宮内に並び彼の上位に立てる、山縣の勝敗にかかわらず昇段を決められるという頼みだった。それはすなわち、最終局で啓一に勝つのは既定路線と村尾は考えているということを示す。カッとなった啓一は帰ろうとし、引き留めようとした村尾を振り払うが…。
本書は将棋を題材にした5作品が収録された短編集。それぞれミステリーとしての読みどころも備わった作品だが、やはり目を引くのは将棋小説としての存在感だ。プロになってもギリギリのところで勝負をし続ける人生であることに変わりはないけれども、四段になれなければそのスタート地点に立つことすらできないのである。すべての奨励会員が、地元では将棋の天才と絶賛を浴びてきた若者たちばかり。同時に、青春のすべてを将棋に捧げてきたような子たちばかりなのだ。その彼らがプロになる一歩手前で感じる焦燥や苦悩を体現しているのが、啓一や村尾といえよう。物語は「ここで!?」と思う場面で終わるが、その先をあえて書かないことで、事態がどんな決着を見ようとも決して消え去ることはないであろう啓一の心の乱れが描き出されているように感じる。
5作品は読後感もさまざま。最も驚かされたのは「ミイラ」という短編。「詰将棋世界」という雑誌の編集部から声がかかり、読者からの投稿作品の検討に携わっている数学教師の常坂。ある日園田光晴という14歳の少年からの投稿の確認作業にあたった常坂は、まったく詰将棋の体をなしていないように思われるその作品を目の前にして、なぜか胸騒ぎを覚える。後日、常坂は「園田光晴」が、感染症の流行によって構成員のほぼ全員が死亡したとある宗教団体のたったひとりの生き残りであることを知る。また、園田が父親殺しの犯人とされている10歳の少年だったことも…。本作では詰将棋というものが大きな役割を果たしていて、詰将棋の説明および園田少年の作った投稿作品の検討にかなりの紙幅が費やされている。ショッキングな内容とも相まって抵抗を感じる読者も少なくないかもしれないが、どうか臆せず読み進めていただきたい。私たちはそこに、同じものを愛する者同士のつながりを見るだろう。そして、傷ついた者に対してこんな形の手の差しのべ方があるのだと知るだろう。
著者の芦沢央さんが将棋に関心を持たれたのは、ここ5年ほどのことだそうだ。その5年の間に、自ら将棋教室に通い、定石や棋譜を学び、名人戦観戦記も書かれている。そして今回、満を持してこの作品集を上梓された。将棋小説の書き手が増えるのはほんとうに喜ばしく、芦沢さんが将棋と出会われたことを、藤井二冠がプロ入り後から公式戦連勝記録を伸ばし続けていた頃に口にされたのと同じ「僥倖」という言葉で表現したい。次はぜひ、長編も読ませていただけたらと強く希望する次第である。
(松井ゆかり)
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