とびきりの「時間」を目指す〜古内一絵『最高のアフタヌーンティーの作り方』
本書の舞台は、都心に広大な敷地を有する桜山ホテル。うふふ~このティールームにねえ、行ったことあるんですよ。桜山ホテルは架空の場所ですから、モデルになった東京・目白の椿山荘にってことなんですけど。残念ながら庭園内で多数目にすることのできる桜は見頃を過ぎてしまっていた時期でしたが、いただいたのはまさに桜アフタヌーンティー。気の合う友人たちとの楽しい時間、窓から見える都会の真ん中とは思えない美しい眺め、そして一口ごとに至福の瞬間が訪れるおいしいスイーツやセイボリー(サンドイッチなどの食事)の数々。もう、天国かと思いましたね(家計には大きく響きましたけど)。
…と、お客である身にはいいことずくめの空間であるが、そこで働く人々にとっては当然苦労や不測の事態も発生する場だ。主役となるふたりは、就活中から桜山ホテルでアフタヌーンティーの開発に携わりたいと夢見てきた社員の遠山涼音と、才能あふれる若きチーフ・パティシエの飛鳥井達也。涼音は「自分で決めた目標に向かって努力をするのはまったく苦にならない」タイプで、新卒で入社した当時には希望とは異なるバンケット棟の宴会担当になったものの、念願叶って今年ようやくアフタヌーンティーチームに配属となった。今年のクリスマスメニュー企画については初めて自分が中心となってプレゼンするということで、意気揚々といくつもの案を準備して臨む。しかし、調理班の達也に提案をことごとく却下され、涼音は前途多難ぎみな空気に頭を悩ませることに。一方、達也は達也で職場の同僚たちにも明かせない秘密を抱えていた。
ラウンジ担当の社員は涼音と、社歴では後輩だがアフタヌーンティーチームのキャリアは長い林瑠璃のふたり。現場であるラウンジを支えているのはサポーター社員と呼ばれるパートの契約社員たちだが、涼音たちにとっても接客は重要な業務だ。人気の桜山ホテルのアフタヌーンティーには、だいたいは複数で訪れるお客がほとんどだけれど、中には一人客もいる。そういった常連で特に目立つのは、堂々としてマナーも完璧な”ソロアフタヌーンティーの鉄人”と呼ばれるサラリーマン風の男性と、アフタヌーンティーのルールには疎そうだけれども実においしそうにスイーツなどを口に運ぶOL風の女性。ひょんなことからティールーム外で顔を合わせたその女性・西村から、涼音はクリスマスメニューのヒントを得る。これで一件落着かと思いきや…。
職場である以上、同僚との関わりがある。接客業である以上、お客との関わりがある。トラブルを避けては通れない。登場人物たちについても、「あ、光明が見えてきたかな?」とみえて、そう簡単に解決とはならないのがリアルだった。そうなんだよ、現実ってそうそうきれいさっぱりオールオッケーみたいなことにはならないんだよな…と少々苦い思いもこみ上げてくる。職場という小さめの単位での話ばかりではない。本書においては、雇用体系や育児、多様性に関しての社会におけるさまざまな問題が取り上げられていて考えさせられる部分が多々あった。
アフタヌーンティーに対する受け止め方というのも、人それぞれ。「東日本大震災直後に、就職活動を始めなければならなかった世代」だった涼音の兄・直樹は、桜山ホテルへの就職しか視野に入れていない妹に「選り好みしていられるお前は贅沢だ」と苦言を呈し、現在も「茶と菓子のことなんかで、悩んでんじゃねえよ」と考えている節がある。また、チームのメンバーの中にさえ、以前はアフタヌーンティーというものを軽視していた者もいた。しかし、ティールームに足を運ぶ人々にとっては、アフタヌーンティーは決して単なる「茶と菓子」だけの存在ではない。セイボリー担当のシェフ・須藤秀夫の抱いた感慨のように、アフタヌーンティーとは「時間」。ひとりだろうが大勢だろうが、男性だろうが女性だろうが、とびきりの時間を過ごそうとやって来る気持ちはみな同じ。そして彼らをもてなそうとするスタッフたちも、最終的に目指すものは同じ。お客にとってアフタヌーンティーは必要なものだし、それを提供するのは立派な仕事だ。自らの仕事に誇りを持ち、目の前の問題に向き合うことで一段と飛躍していく涼音や達也の姿に勇気づけられる。
要所要所で孫娘に的確な助言を与える、涼音のおじいちゃんが素敵だ。歳をとるごとに頭が固くなる人は多いと思うが、涼音の祖父は柔軟に考えることができるタイプに違いない。甘いもの好きなところもいい。
(松井ゆかり)
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。