人種問題を根底にすえたスリラー『白が5なら黒は3』
憎悪の再生産に関する物語だ。
ジョン・ヴァーチャー『白が5なら黒は3』(ハヤカワ・ミステリ)は、人種問題を根底にすえた迫真のスリラーである。作者にとってはこれが長篇デビュー作で、アメリカ探偵作家クラブ賞、アンソニー賞、レフティ賞など複数の最優秀新人賞にノミネートされた。
舞台となっているのは1995年のピッツバーグである。プロフットボール出身の俳優として知られるO・J・シンプソンが妻とその友人を殺害した容疑で逮捕されたのがその前年、公判が進行しており、作中ではたびたびそれについての言及がある。また、1991年のロドニー・キング事件を発端とするLA暴動の記憶もまだ生々しい時期である。2021年1月まで継続したドナルド・トランプ政権下の合衆国では、さまざまな階層間での分断が進行した。その中で蓄積された不安や憤懣、醜悪に改変された差別意識が最悪な形で噴出してしまったのが2020年5月のジョージ・フロイド事件である。約20年前に起きた出来事と2020年の状況とは重なり合う。Black Lives Matter運動の高まりの中で2019年に発表された本書もまた注目を集めたのではないかと推測される。
本書の主人公であるボビー・サラチェーノ青年が、ある晩に幼馴染のアーロンと再会する場面から物語は始まる。ともにコミック好きということから結びついた親友だったのだが、アーロンの外見はすっかり変わってしまっていた。密売目的の麻薬所持容疑で逮捕され、三年間を刑務所の中で過ごした。その苛酷な日々の中で打ちのめされたアーロンは、黒人に対して憎悪の念を燃やす白人至上主義者になっていたのだ。ステロイド投与によって作り上げられた筋肉の鎧と、その上に彫られた人種差別を表す刺青が禍々しい。
不吉な予感を抱えつつも、ボビーは彼と行動を共にする。だが、立ち寄った店でアーロンは激高し、喧嘩を売ってきた黒人青年をレンガで殴って瀕死の重傷を負わせる。ボビーはその場に残って救急車を呼ぶこともせず、加害者と逃げてしまった。もう共犯者なのだ。
この事件が軸となり、発覚と逮捕の恐怖に怯えるボビーの心情が描かれていく。彼にはもう一つ不安の種があった。誰にも打ち明けたことがないが、彼の父親は黒人なのである。もしそれがアーロンに知れたら、どのような危害を加えらえることになるか。目前に迫る事態だけではなく、自身の出自についての秘密が主人公を脅かすという状況設定は、スリラーとしては非常に巧いものだ。
事件が起きたのだから、ボビーとアーロンの逃走劇が始まるのかと思いきや、作者は登場人物たちの動きを止めて、その背景を描き始める。ボビーの母親イザベルは、アルコール依存の問題を抱えており、家賃を払う金を稼ぐこともままならない。日々の暮らしの中で起きる出来事が彼女を酒へと誘うからだ。目の前にある具体的な課題に向き合うことができず、逃避によって悪い循環へとはまり込んでいく。そうした貧困の現実がまず描かれる。彼女がそうした泥沼にはまりこんだ遠因の一つは、ボビーの父親である男性との恋愛であった。恋仲になった男性が黒人だったためにイザベルは人生を狂わされたと考えている。しかし、後にわかるのだが、その男性の側も白人と接したために恐怖や不快な体験を余儀なくされたという事情があったのである。人種に対する偏見が何を生み出すかということを、二人の過去を描きながら作者は明らかにしていく。
一つの家庭、イザベルの父も含めた三世代をモデルとして登場させることで、作者は一つの雛形を呈示したのだろう。イザベルの父は警察官出身で、黒人に対する紋切り型な差別を口にする人だった。そのことによって蒔かれた憎悪の種がボビーの悲劇を生み出すのだ。もう一つの大事な要素は嘘で、真意を偽り続けること、自分の頭で考えずに世間から与えられた根拠のない言説に頼って生きることの虚しさをこの物語は描き出している。
デビュー作ゆえに物足りない部分もある。差別意識や人間の弱さについての主張が前に出過ぎて、話の展開を狭くしてしまっているのだ。「これはマンガでなく現実なのだ」とか書いちゃう臆面のなさにもやや引っ掛かるものを感じた。しかし、単純な骨格の物語だからこそ迫るものもある。次第に自分を取り戻していくボビーは、悔恨の念に打ちひしがれている。何もしてこなかった、何もできなかったという思いに胸を引き裂かれる。悲痛な物語だが、暗闇にすべてが閉ざされる前にこの本に出会えてよかったと思う読者もきっと多いはずだ。
(杉江松恋)
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