【「本屋大賞2021」候補作紹介】『犬がいた季節』――18歳ならではの葛藤をみずみずしく描き出す青春小説
BOOKSTANDがお届けする「本屋大賞2021」ノミネート全10作の紹介。今回取り上げるのは、伊吹有喜(いぶき・ゆき)著『犬がいた季節』です。
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二度と戻ることのない、みずみずしくて繊細だった青春時代。あのころの自分がページをめくるたびに蘇ってきそうな小説が、実力派作家・伊吹有喜が描き出す『犬がいた季節』です。
昭和63(1988)年、三重県四日市市にある進学校・八稜(はちりょう)高校に、捨てられた一匹の白い犬がやってくるところから物語は始まります。在校生の名前をとって「コーシロー」と名付けられた犬は、校長の許可を得て美術部の部室で飼われることになります。
コーシローの視点を織り交ぜながら、八稜高校3年生たちを主人公とした連作形式で紡がれてゆく本書。何度も巡る季節と、コーシローの成長とともに、第1話(昭和63年4月~平成元年3月)から第5話(平成11年4月~平成12年3月)にいたるまで、およそ12年の年月を経て物語が進んでいきます。
第1話「めぐる潮の音」は、家がパン屋を営む美術部員の女子・塩見優花と、同じく美術部員でコーシローの名前のもとになった男子・早瀬光司郎にまつわる物語です。
受験を控えながらも、なかなか勉強に身が入らず、成績が下降気味な優花。そんな折、店に食パンを買いに訪れた光司郎と会話をし、彼が食パンをデッサンの消しゴム代わりに使っていることを知ります。東京藝術大学を目指し実技の練習に励む光司郎に、優花は店の売れ残りのパンを定期的に渡すようになり、ふたりは次第に心を通わせるように――。光司郎の入試への熱意に心を動かされたのか、優花も勉強への意欲を取り戻し、成績が飛躍的に上がっていくのです。
「女が勉強できてもどうにもならん」という態度の祖父母や兄を前に自分の本心に蓋をしていた優花ですが、晴れて合格した東京の私立大学へ進むことを決意します。
優花の淡い初恋は、読んでいて誰もが応援したくなるはず。そして、光司郎の優花に対する思いを最後に知ったとき、読者は胸が締め付けられるような切なさを感じるのではないでしょうか。
このほか、鈴鹿サーキットのF1レース観戦に出かける男子二人の友情を描いた「セナと走った日」、阪神淡路大震災をきっかけに同居することになった祖母との交流を描いた第3話「明日の行方」など、どの作品も18歳ならではの心情が丁寧に描かれたものばかりです。
第1話では子犬だったコーシローは、第5話ではすっかり老犬になり、第1話ではまだ幼かった男の子が第5話では学生に成長していたり、すでに登場した人物の後日譚が別の物語で語られており、一冊を通してひとつの大きな時の流れを感じられる構成になっているのも、本書の秀逸なところといえます。
とくに優花はほぼ全話を通して登場しており(名前だけのこともありますが)、令和元年夏を舞台とした最終話では、現在の優花や光司郎の姿を知ることができて感慨深い気持ちにさせられます。
この物語の主人公たちと同じ時代を過ごした年代の読者にとっては、安室奈美恵やMr.Children、たまごっち、アイルトン・セナなど当時を彩る固有名詞が登場するため、懐かしさもひとしお。自身の青春時代と重ね合わせて思わず胸がいっぱいになることでしょう。
一方で、初恋や友情、家族、進路といった青春時代の悩みや葛藤は普遍的なものでもあります。本書は今を生きる若い世代にとっても共感できる珠玉の小説としてこれからも愛されていくのではないでしょうか。
[文・鷺ノ宮やよい]
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