絵にすべてを懸けた絵師の姿〜谷津矢車『絵ことば又兵衛』
みんなちがって、みんないい。金子みすゞが命を削るようにして紡いだ言葉は、いまだ人々の心を完全に改めさせるには至っていない。まして、個性や多様性といったものが共通認識とされていなかった時代には、他者の身体面や行動面における特徴をあげつらうのにいま以上に躊躇がなかったのではないだろうか。
本書の主人公である又兵衛は、母親のお葉とふたりで寺に住み込みで働いていた。又兵衛には吃音がある。ただでさえ寺の住持から特別扱いされていると修行僧たちから冷たい目で見られているところへもってきて、言葉がうまく出てこない状態の又兵衛には理解者が少ない。そんなある日又兵衛は、襖絵を描きにきた寺出入りの絵師である土佐光吉と出会う。光吉は又兵衛に対し、「同じ匂いを嗅いだのだ。世の中には絵を描ける人間と描けぬ人間の二種があって、絵師をやっていると嗅ぎ分けられるようになる」と語る。そして又兵衛が描きあげた天橋立の絵を見て、「やはり、わしの鼻に狂いはなかった。お前は絵の描ける人間だ」と太鼓判を押した。襖絵が完成するまでの一月ほどの間、光吉に絵を教えてもらうようになった又兵衛は至福の時を過ごすが、幸せは長くは続かなかった…。
歴史にも絵画にも明るくないため知らなかったのだが、岩佐又兵衛は実在の絵師だそう。かつ、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では田中哲司が演じたところの、荒木村重の子であるとのこと。母と思っていたお葉は実は乳母であり、高貴な生まれでありながら運命に翻弄された又兵衛。物語の主軸のひとつが親子の関係性ではないかと思う。又兵衛とお葉、又兵衛と村重、又兵衛と息子の源兵衛。さらには又兵衛が仕えた結城秀康とその息子・松平忠直、忠直とその娘・鶴姫…。現代の親子関係では計り知れない部分もあるし、すべてが良好だったわけでもないだろう。それでも、彼らの間に確かに愛情が通い合った瞬間もあったと信じたい。
さらに、最も胸に迫ってくる本書のメインの軸は、又兵衛の絵を描くことへの情熱だ。日々の勤めをこつこつと行っていても、周囲に迷惑をかけるわけでもなくても、積み上げてきたものが吃音によって台無しになってしまう場面もある。でも吃音により一層絵によって自分の心の内を表現したいという思いが加速した可能性もあると思うと、自分を構成するさまざまな要素というのはいずれも切っても切り離せないものなのだと改めて実感させられる。
実際には、又兵衛については史実があいまいな部分も多く、吃音者かどうかはっきりはわからないのだそう(そのあたりのことについては、著者の9月10日付のnote「岩佐又兵衛と谷津矢車の共通点」などもあわせて読まれることをおすすめします)。個人的にはそういったハンディキャップ的なことを乗り越えて…みたいなシチュエーションとは関係なく、誰もがそのままで力を発揮できる世の中になってもらいたいと思う。が、一方で周囲の否定的な視線のようなものから身を守るためには、自分の得意なことや好きなことが確固とした心のよりどころとなるのもまた痛いほどわかる。みんなちがって、みんないい。そしてみんなに、又兵衛のように得意なことや好きなことや打ち込めるものがあるといい。
又兵衛は現代の世まで絵画を遺した。彼の絵が語りかけるものを、我々は受け取ることができる。彼が何を思ったか、思いを馳せることができる。谷津矢車という気鋭の作家によって小説の世界で新たによみがえった、絵にすべてを懸けた絵師の姿を見よ。
(松井ゆかり)
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。