『千日の瑠璃』423日目——私は理性だ。(丸山健二小説連載)

 

私は理性だ。

けものをけものたらしめ、人間を人間たらしめて、両者のあいだに厳しい一線を画する、理性だ。確実に死に至る病に冒されて尚私と共にある灰色の野犬は、すでに三日間も飲まず食わずで、湖畔の山のなかに横たわっていた。食欲はあっても、食べ物を捜すのに必要な体力が残っていなかった。しかし、その気になりさえすれば、丘の道を上り下りする女や子どもを襲って買物袋やおやつを奪うことくらいはどうにかやれそうだつた。

現に、別荘にこもって年金だけの倹い生活を送る老婦人が豚肉を抱えて通り、盲目の少女が鯛焼きを持って独りで歩いていた。またそのあとで、青いセーターの下に昼飯用の弁当を入れている病弱な少年も通った。けれども野犬は決して私と手を切ろうとはせず、唸り声ひとつあげないで、じっとしていた。それからしばらくして、野犬の一層敏感になった嗅覚は、どこの誰にも迷惑をかけないで入手可能な、手近なところにある餌を捉えた。風向きが変ったおかげだった。そこから十メートルと離れていない土の下から、血にまみれた人間ひとり分の肉がたしかに臭っていた。

私は見るに見兼ねて、そこを掘れ、と野犬に命じた。犬に食われても仕方がない人間に決まっている、と言い、それを食べて少しでも長く生き延びることが真の理性だ、と言った。だが、野犬は腹這いになったまま動こうとしなかった。病態は悪化の一途を辿った。
(11・27・月)

丸山健二×ガジェット通信

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