『千日の瑠璃』419日目——私は気体だ。(丸山健二小説連載)
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私は気体だ。
日毎に水温を下げているうたかた湖の底から、悵然として嘆じる若き修行僧と、それに答える観音像のやりとりを運ぶ、気体だ。湖面まで昇り詰めた私は浮き世の風に煽られて次々に弾け、空気よりも水よりも重く、少年世一の病気よりも重い言葉の数々をばら撒く。しかし、どれも岸まで辿り着くことさえできず、さながら鉄鉱石のような勢いでふたたび水中に没し、破滅の色の鱗に覆われた小魚の群れをかき分けながら、ひと抱えもある石を膝の上に置いて水中の座禅に打ちこむ若者の頭上に、ぱらぱらと落ちる。そしてそのうちの幾つかは、たとえば、生きるかどうかは相手次第ではなくて己れ次第である、という類いの言葉は、砂地に潜りこみ、更に深く沈みこみ、重力に沿って、性根尽き果てたかに思えるこの星の核へと向い、やがて自らの重さに押し潰され、無へと変ってゆく。
肺のなかの酸素を使い切った修行僧は息苦しくなり、私といっしょに浮上して銀色に輝く水面に渋面を突き出し、俗世に淀む大気をいっぱいに吸いこみ、山々の終りかけている紅葉を眺める。それから彼は、世間師どもに囲まれながら港湾労務者として生きていた頃を、友を得ておきながら口約すら守れなかった頃を思い出し、薄い胸板を握りこぶしでどんとひとつ叩いて呑みこんだ私を吐き出し、この季節になっても鳴きつづけるオオルリの声を聞きながら、桟橋の方へと泳いで行く。
(11・23・木)
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