“エンターテインメント小説界の至宝”の家族小説〜遠田潤子『銀花の蔵』
「エンターテインメント小説界の至宝」は、私が独断で作家・遠田潤子のキャッチコピーとして使用しているフレーズである(遠田作品のレビューではこれからもどんどん使っていこうと思ってます)。『銀花の蔵』は、その遠田さんの最新刊。序章では、台所にいる祖母と双子の孫と思われる3人が会話している。その日学校を休んで蔵の工事を見たいとせがむ孫たちに対し、「お父さんとお母さんがあかんて言うなら、あかんわ」とつれない返事の祖母。甘い祖母ではないようだが、彼らの間には確かな愛情が存在することが感じられる場面だ。タイトルの「銀花」とは祖母の名前で、「蔵」では醤油を作っていることもわかった。しかしいざ工事が始まってみると、蔵の床の下から子どものものと思われる白骨死体が発見されるという大事件が。これはいったい…と読者は驚くが、銀花には心当たりがある様子。そして次章は「一九六八年夏」と章題が付けられており、子どもだった銀花の目を通して物語は進んでいく。
小学生の銀花には、絵を描くのが趣味のお父さんと家事の得意なお母さんがいる。それこそ絵に描いたような幸せな家族だ、母・美乃里の手癖が悪いことを除けば。別にお金を持っていないわけではないのに、お店のものや他人のものをふと盗んでしまうのだ。そのときは泣いて謝り二度としないと誓うのに、また同じことの繰り返し。銀花はこのことでとても苦労させられていたけれど、お母さんはかわいそうな人だから優しくしてあげなければいけないという大好きな父・尚孝の教えを守って暮らしていた。しかしある日、家族3人の生活は終わりを告げる。当主が亡くなり、長男である尚孝が実家の醤油蔵・雀醤油を継がなければならなくなったからだ。実家には、てきぱきしているが愛想に欠ける尚孝の母(銀花の祖母)・多鶴子、尚孝の歳の離れた妹(銀花の叔母。1学年しか違わない)で甘やかされて育った桜子、厳しく実直そうな杜氏・大原がいた。醤油造りに関しては素人の尚孝と、極度の人見知りで盗癖まである美乃里。周囲の理解が少ない中、多くの不安要素をはらんだ新しい生活が始まったが…。
まだ小学生の銀花がなんとか両親を支えていこうとしては壁にぶつかる姿には胸がふさがれるし、家族というもののあり方について考えさせられる。ほんとうは曲がったことが苦手で嘘のつけないタイプなのに、母の盗癖を必死で隠そうとしてますます深みにはまっていく。他にもいろいろなひずみを抱えたままなんとか続いていた生活は、ある事件をきっかけに二度と元に戻ることはなかった。しかし、銀花たちの苦難はこれで終わりではなかったのだ。
ひとつのできごとがさらなる事件のきっかけになってしまうことがある。誤解が誤解を呼んでしまったり、そんな気はなかったにもかかわらず誰かを傷つけてしまったり。誰もが幸せになりたいと思って生きているはずなのに、その生活が他者を踏み台にして成り立つのだとしたら、人生の意味や価値を見失ってしまうこともあるだろう。遠田さんは常にそういった人々を描き続けている作家だと思う。どんなにがんばっても何もかも裏目に出て、ただひたすらに自分をすり減らし続けるだけの人生を生きる人々を。
現実においても同じように、すべてを捨ててどこかへ逃げてしまうことも思いあまって自らの命を断ち切るようなこともできないまま、苦しみながら生きている人は多いのではないだろうか。でも、どうせ生きるなら少しでも前を向いて進んでいけるといい。そのためには結局、どんなにつらくても周囲の人々ときちんと関わっていくしかないのではないかと思う。たとえ99人に受け入れてもらえなくても、100人目の人には理解してもらえるかもしれない。もし100人目でもダメだったとしても、自分の信じるところに従って行動したことは自分を支える力になる。絶望の中から砂粒のようにわずかな希望を見出せる人間は強い。最後の最後で踏みとどまれる人間であれと、遠田作品から教えられた気がする。
”当主にだけ見える”という座敷童の正体や蔵に埋められていた白骨の謎、といったミステリー的な興味も真相がわかってみると、わき上がる感情にはやはりかなしみが勝るといえよう。謎が解けた爽快感よりも、さまざまなしがらみに翻弄された者たちの寂寥が胸に迫る。それでも、銀花が最後に得たものはつらさだけではなかったと思えたのは救いだった。
(松井ゆかり)
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