映像は武器たりえるか、レンズを通して語る女たちの年代記

 書き下ろし長篇。ひとつの物語が順々に語られていくのではなく、いくつものエピソードが嵌めこまれている。エピソード間の連続性が明らかなものもあれば、断片的に挿入されるものもある。また、別のエピソードとつながるように思えるが、ずいぶん先まで読まないとその関係が見えてこないものもある。技巧的に設計されたモザイク小説というより、撮りためたドキュメンタリーフィルムのように未完成の部分を残しているかんじだ。整理しきらないからこそ伝わる迫真がある。

 エピソードは――

 現在進行形で展開する「Side A」
 十九世紀末から現代へと向かう「Side B」

 このふたすじに大きく分かれ、交互に語られていく。

「Side A」エピソード群のなかで中心となるのは、高校生の「わたし」と、その「わたし」のもとに押しかけるように来て親友になった「彼女」のエピソードだ。ふたりはいたるところに監視カメラがある町(いうまでもなく私たちがふつうに暮らしている都市そのものだ)で、通りの様子やひとびとの姿を撮影、それを編集・加工してはネットに放流している。

「Side B」エピソード群の中心は、横浜の娼館「夢幻楼」をルーツとする女系年代記である。かならずしも血がつながっているわけではないが、母から娘、さらにその娘……と、だれもが映像に関連して才覚を発揮する。それも母から学ぶのではなく、母とは別なアプローチとキャリアで、その時代の映像にかかわっていくのだ。この女系年代記は、それぞれの時代に特徴的なできごととファンタスティックな要素が混淆して、激動の歴史を描きだす。ガルシア=マルケス『百年の孤独』よりも、桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』をスケールアップした印象だ。なにしろ、夢幻楼の女たちは果敢に世界へ出ていくのだ。

 十九世紀末、二十世紀、二十一世紀……それは戦争のありようが加速度的に変わっていく軌跡である。

『暗闇にレンズ』で剣呑なのは、「Side B」でチラチラと言及される映像兵器だ。その実態は詳らかではない。はじめて用いられたと言われるのは第二次ボーア戦争。イギリス軍が光源を備えた荷台に投射機を仕込んだそうだが、その記録は残っておらず、作戦の存在自体が真偽不明だ。ただし、そもそも記録できないように作戦をおこなったふしもある。

 また、伊土戦争(作中での明示はないがそう推察される)で、イタリア軍は空から自動式の映写機を落とし、建物の壁を利用して、町全体を無数の映像の再生機に仕立てて民間人を攻撃した。これはおぞましい成果をあげたが、そこでいかなる映像が用いられたかは資料が残っていない。

 ずっと時代が下ってからは、「映像を見せないことによる映像兵器」の開発さえ、各国で試みられるようになった。映像を見たひとにぎりの者たちの証言が流布し、映像を見ていない(見たくとも見られない)ひとびとに影響を与えていく。こうなると映像兵器というより情報兵器である。

 映像兵器は軍事組織によるものだけとは限らない。兵器を目ざしていたわけではないが、「Side A」のわたしと彼女がつくった映像が、バンコクにいた男性を失明させてしまう。男は「見ていたときにきゅんという音がしたのだ」と証言する。しかし、この事件はネットニュースで拡散されたものであり、出所が確認できない。よくある都市伝説かもしれない。とはいえ、このころから、わたしと彼女の動画コンテンツは、流用された二次使用も含めて、一部のひとびとに信仰的に受けとめられるようになっていく。

『暗闇にレンズ』が面白いのは、映像兵器の機序や実効を書き連ねるのではなく、その存在(あるいは非存在)が世界を伝播していく過程で、ひとびとの現実感や社会内の関係が少しずつ変わっていくさまを描いている点だ。SFがあたりまえとしてきたモノ的アイデアとは一線を画す。

 映像兵器は『暗闇にレンズ』において気がかりなモチーフだが、物語はそれをめぐって動くわけではない。読者の興味を牽引するのは、「Side A」で語られる歴史と「Side B」の現在がどのようにつながるのか、「わたし」と「彼女」が夢幻楼の年代記のなかでいかなる役割を果たすかだろう。結末では、十九世紀末からはじまった映像にかかわる一家の運命が、現在から遡及的に照らしだされる。

(牧眞司)

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