『千日の瑠璃』390日目——私は抵抗だ。(丸山健二小説連載)
私は抵抗だ。
気持ちのいい夕月夜に、世一の姉が母親に試みる幾度目かの抵抗だ。彼女は身の振り方を決めるにあたって、こう言った。自分のことだから誰の指図も受けない、と。そして、親になったことをずっと後悔している母親の言い分は、こうだった。婚約、結婚という手順をきちんと踏まずに、ただいっしょに暮らしたのでは、世間口がうるさいだけではなく、内縁の関係だけで終ってしまうかもしれない、と言った。そのときになって悔んでも始まらない、と言い、責任をとりたがらない男の逃げ口上に騙されてはいけない、と言った。
父親はこう言った。あの歳になって空事ばかり言っているような、いつまでもまともな仕事に就けないような男など信用できるわけがない、と言った。しかし父親の口調には、どこか投げ遣りな響きがあった。「あたしだってもういい歳よ」と姉は言った。それから私は更に勢いづいて彼女を煽り、しまいには家を出て行く決心さえさせたのだ。
だがそれは、家出と呼べるほどのことではなかった。彼女は手ぶらで外へ飛び出して行き、きょう一度下っている丘を、泣きながらもう一度下った。ついで私は、湖心へ向けてボートを漕ぎ出す力を彼女に与えた。彼女はオールを操りながら、丘の上に懸かる月を見まいとして顔を伏せ、天涯孤独の身の女になり切ろうと頑張った。しばらくして彼女は、崖っ縁に立って呼び掛ける弟の声を聞いた。
(10・25・水)
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