「普通」に縛られない家族の物語〜寺地はるな『水を縫う』
家族とは何か。仕事とは何か。新入社員&就活生の息子たちがいる今年の我が家において、常に心を占める問題となっている。どういう仕事をして生きて行きたいか。仕事をしていくうえでどんな心構えでやっていかなければならないか。難しいのは、自分の経験を踏まえて多少のアドバイスはできても、それが息子たちの心に響くとは限らないし、そもそも全方位的に効く忠告などないということだ。であれば、自分のやるべきことは最終的には自分の心に聞くしかない。息子たちも、私も。
本書は連作短編集。語り手は短編ごとに変わるがその中でひとり選ぶとしたら、主人公は高校1年の松岡清澄といっていいだろう。清澄は裁縫が好きな男子。裁縫は祖母・文枝に教えてもらったが、母は男である清澄が針仕事をするのを快く思っていない。デザイナー志望であった父・全は何年も前に家を出ていき、現在は雇い主でもある縫製工場の経営者・黒田のところに世話になっている。
入学したてのホームルームでの自己紹介でも、「縫いものが好きなので、手芸部に入るかもしれません」という清澄の発言は目立った。そんな中清澄は、もうすぐ結婚する予定の姉・水青のウェディングドレスを縫おうと思い立つのだが…。世界的なデザイナーなどには男性が多いのに、日常レベルで男の子が手芸が好きだとからかわれるとは。清澄の場合もまた、周囲の理解者は多くない。中学時代もどちらかというと周囲から浮いた存在だった。
その人の好きなことを否定しない。たったそれだけのことが、なぜ難しいのだろう。とはいえ清澄の場合、祖母は強い味方だったし、小中で一緒だったくるみも同じクラスにいた。後ろの席の宮多とLINEの交換をするような仲になれたことも、支えとなったことだろう。清澄は自分の趣味を変に隠そうとしたりしない。とても自然に自分の好きなことに向き合っているように見えて、頼もしさを感じる。その清澄でさえ(というか、さつ子や文枝が、というべきか)、友だちを作らなければならないと思い詰めたりするのが、”世間の常識”的なもののやっかいなところなのだが。
息子を持つ親として、ほんとうは文枝のように広い心で子どもの先行きを見守る存在になりたいと思う。しかし現状で私自身にいちばん近いキャラはさつ子だと言わざるを得ない。息子たちに対して、ついつい「もっとやるべきことあるんじゃない?」と言ってしまう。子どもの希望に苦言を呈してしまう。子どもが遭遇しそうになる困難をあらかじめ排除しようとしてしまう。自分が、子どもの可能性の芽を片っ端から草刈り機で刈り取っているような母親なのではないかと不安は尽きない。
それでも、きっと思い悩んでいるであろうさつ子もまた、清澄や文枝たちの影響を受けて変わっていく。さつ子は40代、文枝に至っては70代だが、人間はいくつになっても変われると思えることがどれほど励みになるだろう(文枝の新たなる挑戦を後押しする清澄の一言が素晴らしい)。間違えたらやり直せばいい。自分とは異なる意見を持つ人のことも尊重できるようになるといい。
余談になるが、私の父は刺繍こそしなかったものの、ズボンの裾上げなどは苦にせず自分でやるタイプだった。さらにいうと料理好き。おかげで、「男だから」「女だから」といったジェンダーバイアスにあまりとらわれない意識を持てたことは幸いだった。私のように財産も才能もない人間が次の世代に対して何かできるとしたら、差別や偏見のない世の中にしていくことだけではないかと思う。いろいろな考えや好みを持った人、さまざまな形の家族が存在していい。「普通」いう言葉に縛られて、自分や他人を苦しめる必要なんてないのだ。
寺地はるなさんが『ビオレタ』でデビューされたとき、力強い新人作家がまたおひとり出てこられたものだと思った。『水を縫う』は、現時点での著者の最高傑作との呼び声も高い(激しく同意)。生きていくうえで心に刻むべきことが詰まった本書は、「WEB本の雑誌」誌上でもすでに複数回記事が取り上げられている。それは承知しつつ、そろそろ新刊と呼ばれる時期を過ぎようとするいま、もう一押しということで。
(松井ゆかり)
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