『千日の瑠璃』378日目——私は飢えだ。(丸山健二小説連載)
私は飢えだ。
もうだいぶ長いこと踪跡をくらましていたのだが、三十数年振りに突然まほろ町へ舞い戻った、飢えだ。見る者によっては広量な人物に見えるという肥満した物乞い、彼は丸々二日間水だけで過した。それもあやまち川の水を飲んでいたのだ。かえらず橋の下の乾いた砂の上に寝そべりながら、小難しい顔つきで切実な言葉の数々を吐き散らしながら、何とかして己れを言いくるめようと頑張った。
そして私は今朝方、彼を襲った。私はどやしつけた。これで世間の連中があくせく働く訳がわかったか、と。しかし、物乞いは返事をしなかった。したくても声を出す力さえなかったのだ。私は尚もつづけた。いくらこうした時代でも、何もしなければひと粒の米も口に入らないのだ、と言い、「おまえみたいな奴は早いとこ死んじまえ」と言い、そもそもこの世に生まれてきたこと自体が間違っているのだ、と言い、「このおれが引導を渡してやろうか」と言ってやった。
すると物乞いは、好きなようにするがいいという意味で頷いてみせ、ふたたび失神と睡眠のはざまに生じる愚人の夢へと逃げとんだ。ところが、夕方になってとんだ邪魔が入った。役場の職員がやってきて物乞いの枕元にパンと牛乳を置き、私を押しのけたのだ。彼はこう呟いた。「この町で死なれたら面倒だもんな」とそう言って、鬘が雨で崩れるのを気にしながら、飽食の日々へと戻って行った。
(10・13・金)
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