“意外性の作家”の短篇集〜津村記久子『サキの忘れ物』
津村記久子さんって思っていたのとはちょっとイメージの違う作家かもしれない、と思ったのは「フェリシティの面接」という短編を読んだときだ。アガサ・クリスティが生んだ名探偵エルキュール・ポアロの秘書であるミス・レモンが活躍する軽妙な作品で、『名探偵登場!』(筒井康隆他/講談社文庫)というアンソロジーに収録されている。津村作品といえば”職業小説(往々にしてパワハラあり)”という印象が強かったのだが、こんなミステリー絡みのしゃれた作品を書かれるとは思っていなかった(職業小説ではある)。「フェリシティの面接」は、読書好きの方でもあまりご存じでないような気がするので(Wikipediaの津村さんのページにも載っていなかった)、ぜひこちらもお手にとっていただけたら。
以来、津村さんを”意外性の作家”と考えているのだが、本書にもバラエティに富んだ作品が並んでいる。観光案内所のガイド風の語り口が印象に残る「ペチュニアフォールを知る二十の名所」や、みんなが期待しながら並んでいる先にあるものが何なのか最後まで明かされない「行列」、極めつけは自分の選択によって主人公の未来がどんどん変わっていってしまう「真夜中をさまようゲームブック」。ゲームブック形式って構成がたいへんだっただろうなあ…1回読んだだけで終わらせるのはもったいないから、また時間をおいて何度も楽しむことにする。
といいながら、最も心を打たれたのは最初に置かれた表題作だった。素晴らしくて立て続けに2回読んでしまった。「サキの忘れ物」の主人公は、病院に併設されている喫茶店でアルバイトをしている千春。自分の母親と祖母の間くらいの年齢の女性客がその店に通うようになってから3か月ほどになる。その女性は閉店までの1時間をだいたい本を読んで過ごすのが常だった。
千春は身近な人間からあまり大切にされていないのだが、本人はそのことに対して意識的でない(うすうす気づいてはいるけれども目を背けているのか、ほんとうにピンときていないのかは判然としない。おそらく前者か)。千春は、病院へのかかり方も実費という言葉もビルマという国(現在のミャンマー)も知らない。娘が何か質問しても答えられなかったり(知らないのはしかたないとして、調べようともしなかったり)返事もしなかったりする親や、当然のようにおごってもらうことを期待している友だちからは、人生において大切なことを教えられる機会が乏しかったのだろう。
女性客は千春に、物事を別の側面から見たりそれまで知らなかったことを知ろうとしたりする気持ちを芽生えさせたのだと思う。本好きとしては、千春の心の成長が本と密接につながっているのがうれしい。”本を読むのは楽しいから”でいいと思うけれど、知識を得るきっかけにもなり得る。知識があれば、病院にかかることもできるしいろいろな言葉を蓄積することが可能になる(もしわからないことがあったとしても、どうすればいいのかを考えたり人に聞いたり検索したりするという解決策にたどり着けるようになる)。本の力ってすごい。別に勉強になるからとか知識を得たいとかいう目的でなくても、読書は自分の世界を広げることにつながっていく。
女性客のキャラクターもいい。病院へは入院している友だちを見舞うために通っているという。その友だちが眠っていることが多くて暇だからというので、このところ本は読まなくなっていたけれどもまた読書を始めたとのこと。久しぶりとはいっても、千春にすすめた本のリストはある程度の本読みでなければ選べない内容のように感じる。
あと、両親や友だちの美結は好感の持てないタイプだが、喫茶店の店長や同僚の菊田さんなどの周囲の登場人物たちはいい人揃いだと思う。あまりものを知らない千春を小馬鹿にしたりすることなく、質問に丁寧に答えているのがよかった。心ある人たちに助けられて、自分でも変わろうとして、10年後に千春がどんな人間になったかをぜひお読みになって確かめていただきたい。
ちなみに、『サキの忘れ物』のサキとは、イギリスの作家(ビルマ生まれ)。昔の新潮文庫の『サキ短編集』表紙には著者の顔がバーンと載っていたんですけど、今回検索してみたらサン=テグジュペリと混同していたことがわかりました。いずれにしても、「サキの本を探しているのですが」という千春の声かけに対して、一発で『サキ短編集』を持ってきてくれる書店員さんはデキる人。
(松井ゆかり)
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