『千日の瑠璃』361日目——私は潜水だ。(丸山健二小説連載)
私は潜水だ。
修行のための修行に厭気がさした若い禅僧が、堪り兼ねて試みる、うたかた湖での潜水だ。彼は、思い切って脱いだ衣を枝振りのいい松の木に掛け、ろくに準備体操もせず、心臓のあたりをちょっと水で湿しただけで、やにわに身を躍らせた。そして、人の息遣いにも似た間をとって湧いてくる泡の正体を探るべく、一気に湖底へと向った。彼は水深について高をくくっていた。岸に比較的近いというだけで、浅いはずだと考えていたのだ。
ところが、実際には彼が予想していた三倍も深く、いい加減に吸いこんだ空気をたちまち使い果たしてしまった。彼は一旦浮上した。立ち昇る泡が、今や無用の長物の彼の魔羅を勃起させた。それには構わず、彼は俗界に満ちる酸素を肺いっぱいに吸い、片方の眼で現世の愉楽に生きる男女を、もう一方の眼で難病故に薄気味わるい相貌となった少年をちらと見てから、ふたたびどぼっと水中へ没した。
私は彼に警告を送った。素人では危険な深さだ、と。もしかすると命取りになるかもしれない、と。だが、まだどこかに幼顔が残っている僧は聞き入れなかった。彼は泡の鎖を伝ってどこまでも降りていった。肺は水圧で縮んでいったが、褌のなかの厄介な一物は逆に膨らんでいった。彼は白い砂の上にきちんと立っている観世音菩薩の胸像を見つけ、泡がその形のいい唇から洩れているのを目のあたりにした。彼は驚喜の表情を浮かべながら射精した。
(9・26・火)
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