『千日の瑠璃』353日目——私は落下だ。(丸山健二小説連載)

 

私は落下だ。

一家族が睦やかに暮らす丘のてっぺんから寂し過ぎる山上湖へ向って始まった、木像の落下だ。家の外回りを片づけていた世一の母は、揺らぎ岩の上にでんと鎮座する観音像に気がつくと、つかつかと歩み寄り、それをむんずとつかみ、憮然とした面持ちで、こう言った。もう騙されはしない、と。そう言って彼女は一瞬のためらいもなく、もしかすると信じるに値する力を秘めているかもしれぬその胸像を、崖の向うへぽんと放った。これまで彼女は、燃えないごみでさえそんなふうに手荒く扱ったことはなかったのだ。

かくして私は始まり、速度と回転を急激に増していった。非情な重力は相手が何者であろうと容赦せず、地獄の底まで引きずりこむほどの勢いで引き寄せる。空中で羽虫を呑みこんでいた岩燕の群れが、私に驚いて一斉に丘を離れる。もしこのまま突き進めば、木像は岩場に叩きつけられ、二つか三つに割れてしまい、ただの木片として朽ちてゆくことになるだろう。それは飛べなかった。それは翼を持っていなかった。

ところが、私を妨げる力が働き、たぶん突風のせいだと思うが、それは岩場には落ちず、その向うにある湖岸の草の道に受けとめられ、勢い余ってころころと転がり、水にそっと抱きとめられる。だが、私はまだ終ったわけではない。それはよく乾いた木であるにもかかわらず、湖底へ向ってゆっくりと沈んでゆく。
(9・18・月)

丸山健二×ガジェット通信

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