『千日の瑠璃』349日目——私は閑散だ。(丸山健二小説連載)

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私は閑散だ。

九月に入ると急速にうたかた湖とその周辺を占めてゆく、例年通りの閑散だ。それでも見掛け上の夏は相変らずの調子を保ち、気温などはむしろ八月の最高記録を上回っており、日中はずっといたるところで光と熱と気怠さが渦を巻いている。しかし、観光客の数はまばらになり、遊泳者が発する言葉のひとつひとつがはっきりと聞き取れ、白鳥をかたどった遊覧船は岸壁に係留されたままで、湖面をかきむしるボー卜やウインドサーフィンのポードや水上スキーやヨットなども、日毎に水に圧倒されてゆく。キャンプ場から漂うカレーの匂いが減り、残飯を漁る鳥や犬や物乞いが寄りつかなくなり、商況の不振が誰の眼にも明らかになり、世一の姿が目立つようになる。

この夏もまた去年並みに稼いだ貸しボート屋のおやじに、私は言う。「これからのんびりできるなあ」と。おやじは「ああ」と言い、秋を控えたうたかた湖が一番好きだと言い、いっぱいに背伸びをしながら「まだまだ生きてやるからな」と言う。それから彼は、遠浅の浜で体を洗っている物乞いに、「おい、ここは銭湯じゃないぞ」と言い、「おまえの毒で魚が死んだらどうするんだ」と言って笑う。すると物乞いは「わしの垢は餌になるぞ」と言って笑い返す。私はかれらの笑声をしばらく弄んでから、湖底へと沈めてやる。そのあと私は、泣きながら丘の上の家へと帰って行く、もはや若いとはいえない女の声と戯れる。
(9・14・木)

丸山健二×ガジェット通信

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