『千日の瑠璃』347日目——私は楽器だ。(丸山健二小説連載)
私は楽器だ。
ストーブ作りの男が久方振りに手にした、肉声に最も近い音色を出せる、楽器だ。私を押し入れの奥から引っ張り出した途端に彼は、のべつ勝算を胸に秘めていることができた学生時代へ一気に引き戻された。彼は柔らかい布で私の面をこすり、管のなかの挨を払い、リードがひび割れていないかどうかを確かめた。まだ充分に吹き鳴らすことができる私を、彼は長いこと部屋の隅で抱きしめていた。
それから彼は女との約束をすっぽかし、私を手にして昼間よりも暑くなった夜のなかへと出て行った。クルマではなく、おんぼろ自転車にまたがってどこかへ向った。私は彼の背中で流れる星を数えていた。途中彼は、私などよりずっといい声を出す女とすれ違った。しかし、彼は声をかけなかった。また、相手の女は気がつかず、彼に食べさせる弁当を荷台に括りつけた自転車を駆って、交接のときめきにすべての疑いを棄てて走り去った。
男はキャンプ場を抜け、別荘地を横切って、虫の声とさざ波の音しか聞えないところまで行き、葦辺に佇んだ。そしておもむろに私をがさがさに荒れている唇へ持っていった。私が十数年振りに発する震動は夜気を震わせ、湖面を滑り、演奏者の胸のうちへと逆流した。そうやって私はあれから何を失ったかについてやんわりと彼を諭し、今も尚失いつづけていることを鋭く、厳しく指摘し、このままではもうじき本当に腐ってしまうだろう、と警告した。
(9・12・火)
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