『千日の瑠璃』346日目——私は疲労だ。(丸山健二小説連載)

 

私は疲労だ。

世一の父親の心身の底に溜りに溜った、ちょっとやそっとでは抜けそうにない、重い疲労だ。今朝彼は、眼を醒ましてまもなく、私に気づいた。くわえた煙草に火を点けるのをやめた彼は、洗面所の鏡に己れの顔を映し、とくと眺めた。食欲をなくし、頬がげっそりとこけ、眼が落ちくぼんだ顔の隅々に、彼ははっきりと私を見て取った。それから彼は家族の誰にも聞えない声で、こう呟いた。「もうどうでもいいや」

そして彼は朝食抜きで家を出、そこよりも気温が五度も高い丘の下へと、重力に引っ張られるままに降りて行った。その途中でも彼は、「もうどうでもいいや」を三度口にし、言うたびに彼は私の思う壺にはまっていった。彼はどうにかバス停までは行ったものの、しかしパスには乗らなかった。私が唆したからだ。「もうやめようじゃないか、こんな生活」という私のひと言で、彼は一旦バスのステップに掛けた足をふたたび地面へ戻してしまった。「忘れ物ですか?」と顔馴染みの運転手が訊き、彼は「うん」と答えた。

バスが残した排気ガスを彼はいい匂いだと思い、「たしかに忘れ物をしたのかもしれんな」と言い、そのまま涼しい風が吹いている湖畔の松林へ入って行った。彼は、昨夜若い男女が堪能するまで交わったかもしれないベンチにどっかと腰をおろし、ついで寝そべり、林の向うで光り輝く湖面を眩しそうに眺めた。
(9・11・月)

丸山健二×ガジェット通信

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