『千日の瑠璃』340日目——私は躊躇だ。(丸山健二小説連載)
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私は躊躇だ。
オオルリの熱心な勧めで丘を下って行った少年世一を、中腹のあたりで不意打ちした、躊躇だ。私はまず世一の足をとめ、それからマツムシ草の傍らに腰をおろさせた。すると、丘の家で飼われている青い鳥が私に気づいて、更に世一を叱咤するさえずりを投げてきた。丘の下に広がる町こそが生きていることを証明する唯一の空間であり、丘の上には死を証明するものしかないのだ、とそう鳴いた。そして、入院中に得た安らぎの先にあるのは寂滅でしかない、と言い切った。
私とて黙っていたわけではなかった。丘の下は、生きながらにして死んでいる人々が死んでいることを忘れるためにひしめく場所である、と言い、丘の上こそが、死んだあとも生きつづけられる絶対的な場所だ、と言ってやった。オオルリは世一に向って「おまえは鳥ではない」と言い、「鳥ではない者は低きをめざせ」と言った。しかし、熱上昇気流が運んでくる悪臭と塵芥と騒音と虚妄は、世一にそれ以上丘を下らせることはなかった。めまいや軽い吐き気を覚えた世一は立ちあがり、まほろ町に背を向け、きた道を引き返して行った。そっちの方には、空なる空と、底無しの静寂と、風聞の抜け殻と、舷しさ故の寂しい光が満ち満ちているばかりだった。激励する青い鳥も疲れを見せ始めていた。私はまた世一の足をとめた。その場にしゃがみこんだ世一は、人間をやめてもいい、などと口走った。
(9・5・火)
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