『千日の瑠璃』339日目——私はトマトだ。(丸山健二小説連載)

 

私はトマトだ。

丘の上の極めて条件のわるい畑で、ともかく完熟し、朝露といっしょに丸齧りにされる、黄色いトマトだ。少年世一は今、崖っ縁の揺らぎ岩の上に立ち、病院ですっきりさせてきた胃袋へ私を少しずつ送りこみながら、勤めに出掛ける三人を見送っている。姉はすでに麓に辿り着いて、小屋のなかから自転車を引っ張り出している。中腹のあたりを下っている父親は、うたかた湖周辺の鳥たちを一斉に沈黙させてしまうほどのくしゃみをしたあと、「コンチクショーめ!」をうつせみ山に叩きつける。そして、早出のためにいつもより一時間も前に家を出た母親は、夫のあとを追うというよりも、息子から逃げるようにして、せかせかと絶望の斜面を下って行く。

死なずにすんだ世一は、食べるのを中断して、私を念入りに見直す。日にかざして私の色の鮮やかさに見とれ、ついでに己れの手を流れる血液の赤と、太陽の金色をうっとりと眺めながら、二階の部屋の、天国の門のように開け放たれた窓からばら撒かれる青い鳥のさえずりに聴き入る。まだ生きている世一はそうやってふたたびこの世に考察を加え、現世を統べる者が自分自身にほかならないことを再確認する。それから彼はまた私に齧りつき、青臭い芯を肯定の光に満ち満ちた天心へ向って投げつける。私が宙に浮いているうちに世一は、己れの足場である岩をぐらぐらと揺らし、雄哮ともいえる大声を張りあげる。
(9・4・月)

丸山健二×ガジェット通信

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