『千日の瑠璃』337日目——私は背中だ。(丸山健二小説連載)
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私は背中だ。
食あたりと急性肺炎に打ち克って退院できた少年世一を、丘の家まで運び上げようとする男の、広くも狭くもない背中だ。世一の父は手が離せない仕事を理由に、代りの者を病院へ行かせた。頼まれた彼の弟は、喜んでその役を引き受けた。叔父は世一を軽トラックに乗せて湖畔まで運び、正の麓の松林のなかで、ヒグラシといっしょに日が陰るのを待った。夏の直射日光の下を汗だくになって急坂を登ることは、病みあがりの者にとっても、彼を背負う者にとっても危険だった。
しばらくすると、世一の家へプロパンガスのボンベを運び上げる業者が、キャタピラ付きの、リヤカーに毛が生えた程度のトラクターに乗って丘を下ってきた。しかし叔父は助けを求めず、黙ってそれをやり過した。突き出た腹を太陽の方へ向けて桟橋に寝そべっている物乞いが、世一に気がついて手を振った。世一も手を振って応えた。ヒグラシが鳴き出した。
陽光の力が半減し、ひんやりとした一陣の風が人情の機微に触れながら松林を吹き抜けた。私は世一を乗せて丘へと向った。世一は私を通して緋鯉の精神を、どんなことをしてでも、たとえ人が眼を側めるような真似をしてでも生き延びる力を吸収すべきだった。私は噴き出す汗を介して世一にその力を送りつづけた。だが、それはあまりにも勢いが良過ぎて世一の未熟な肉体を突き抜け、大気中に拡散し、遠雷によって破壊されてしまった。
(9・2・土)
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