『千日の瑠璃』330日目——私は錦鯉だ。(丸山健二小説連載)

 

私は錦鯉だ。

白地に黒の模様が世界地図に酷似しているという点が高く評価されて、特に大切にされている錦鯉だ。私を作出した男は、どんなに高い値をつける買い手が訪れても私を手放そうとしなかった。また、欲しがる者をそれ以上増やしたくなかったので、コンクールにも出さなくなった。そして彼はときどき、犬か猫のように私の頭を撫で、こう言うのだった。

「おまえが死ぬときは世界の最後だぞ」

ところが、私はきょう初めて手荒い扱いを受けた。いきなりたも網で掬いあげられたかと思うと、水や酸素といっしょに透明なビニール袋に閉じこめられたのだ。だが、金のほかには何も持っていないような誰かに買い取られたわけではなかった。彼は私を軽トラックに載せて山を下って行った。ひんやりと涼しい神社へ着くと、彼は私を袋ごと抱えて、社殿の前へしずしずと進み出た。

彼は、わが身の悲運を託ちつつ神に縋って厄難を逃れようとしている老婆をぐいと押しのけ、その場所に私を供え、柏手を打って頭を垂れ、今はいると信じるしかない相手に向って、甥の命のことを頼んだ。まだ死なせないでもらいたい、と。それから私は、神社の半分を占める、広くて古い池に放たれた。烏合の衆に等しい鯉どもが、私に驚いてぱっと散ったが、すぐに新参者の私を白眼視した。そこで私は、私の価値について得々と語った。しかし、世界の地図を知る者はいなかった。
(8・26・土)

丸山健二×ガジェット通信

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