『千日の瑠璃』321日目——私は流木だ。(丸山健二小説連載)
私は流木だ。
まだキャンプ場に人声がまったく飛び交っていない早朝、砂浜にそっと打ち上げられた、流木だ。これまで私は、さほど広いとは思えぬうたかた湖を、およそ一年にも亘って彷徨った。けれども、なぜか岸へ引き寄せられたためしが一度もなかったのだ。突風が吹き荒れて波が逆巻くときでも、遊覧船が蹴立てる波に煽られたときでも、湖の中心付近を回っているだけだった。
それがどういうわけか、今朝になって突然遊泳場の方へどんどん引き寄せられ、無風状態なのに木の葉のように軽くあしらわれ、とうとう砂地へ乗り上げた。長い漂流のあいだに私はたっぷりと水を吸い、皮がきれいに剥けてしまい、表面は真っ白に変色していた。そんな私のことを何かの骨とでも見間違えたのか、一羽の老いた烏がやってきた。そいつは私の上にとまると、ひびだらけの嘴をこすりつけ、二度、三度とはばたき、壮とするに足る意気を世間へ向って示した。
そのあとで、いくらか山国に馴染んだもののまだまだ居場所がない鷗がとまり、私に相談を持ち掛けてきた。海へ帰るべきかどうか、と。私は答えなかった。それから昨晩男の家に泊まった女がきて、合歓の余韻を残した腰を私の上におろし、両親にどんな言いわけをしたらいいかをさんざん思案した挙句、正直に話すしかないと腹を括り、これから帰って行かなくてはならない丘の家を睨みつけた。
(8・17・木)
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