『千日の瑠璃』316日目——私は乳房だ。(丸山健二小説連載)

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私は乳房だ。

不器量だが至って気立てのよい娘の、とても形のいい、誇るに足る、ふくよかな乳房だ。些かあこぎで、弱小な芸能プロダクションから夏の休暇をもらって帰省した彼女は、実家の中庭に戸板で仕切りを作ってもらい、流行の水着を着てそのなかに寝そべり、息をひそめて肌を焼く。そしてしばらくすると、太陽にも気取られぬよう注意しながら水着を外し、私を久しぶりにまほろ町の陽光に晒す。

私は上京前と同様、今でも彼女だけのものだ。彼女はまだ女たらしの手管に掛かっていないし、思いの丈を打ち明けるに足る男にも巡り合っていない。彼女は日焼けを適度に抑える特殊なクリームを私にも塗りつけながら、この春に発表したものの関係者の思惑通りにならなかった新曲を口ずさむ。事務所ではこう言った。チャンスはこの先いくらでもある、と。ついで、こうつけ加えたのだ。私を売り物にすれば大ヒット間違いなしだ、と。その言葉を信じた彼女は、私が売り物としてふさわしい色になるまでこんなところで仰向けになっているつもりらしい。やめるべきだ。

私の上に這いあがってくる蟻を、彼女は肢一本傷めないようにそっとつまんで地面へ戻してやる。応接室では、鬘をつけた役場の職員と彼女のマネージャーがまほろ町での公演について打ち合せをしている。まほろ町の空気を吸った心臓が、私を通して警鐘を乱打している。私は彼女には似合うが、歌にはふさわしくない。
(8・12・土)

丸山健二×ガジェット通信

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