『千日の瑠璃』298日目——私は熱風だ。(丸山健二小説連載)
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私は熱風だ。
あやまち川を溯り、うたかた湖を渡っても冷えることがなく、却って勢いづくような、世慣れた熱風だ。私のせいで町の気温はぐんと上昇し、やや遅れて湖と川の水温も上がる。さしもの夏鳥たちも一斉に水浴びを始め、そこかしこで小さな飛沫をあげる。昼間から下着を脱いで抱き合っていた男らしい男と女らしい女は急いで離れ、飼い犬も野良犬も長い舌を出せるだけ出して、喘ぐ。
無頼の徒が横行する大通りは白っぽく輝いてしんと静まり返り、旧友の顔を面忘れした霞目の老婆が木蔭で独りつくねんと坐っている。全山は降るような蝉時雨に覆われている。そして、己れの軍装の写真を唯一の心の拠り所とし、小心翼々とした七十五年を生きた老人が、床に安臥してまもなく、その命を全うする。彼は、戦争のために南方で残害した人々を思い出して良心の呵責を感じることはなく、さりとて一時期は神とまで崇めた天皇と同じ年に死ねることを誇りに思ったりもせず、昼飯の時間になるまで眠りこけるといったいつもの軽い気持ちで、息を引き取る。
それから私は、住民の驕慢な態度を和らげ、苛烈な競争を封じこめ、非人情な行為を戒めて、多くの人々を生来の愚鈍な人間に引き戻す。ついで、溶けかけたアスファルトの路面を踏んで行きたい方へ行く、つむじのない頭がのべつぐらぐらと揺れている少年を襲う。しかし、少年は私の攻撃をあっさりと躱してしまう。
(7・25・火)
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