『千日の瑠璃』295日目——私は匕首だ。(丸山健二小説連載)

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私は匕首だ。

柄のところに輪切りにした自転車のチューブをはめられた、刃渡り九寸五分の、断じて果物用に作られたのではない、匕首だ。今夜私は、男をひとり、世の拘ね者といっていい相手を滅多刺しにした。凶漢となった私の主は、絶命したばかりの、まだ温もりのある柔らかい骸の後頭部に私を深々と突き立て、しばらくのあいだ満面をほころばせていた。

しかし、私をべったりと汗をかいた掌で握りしめ、私を無我夢中で繰り出した男の姿は、今はもうまほろ町のどこにもありはしない。それは極めて大胆な犯行だったにもかかわらず、第三者の目にはとまらなかった。顔面を古傷が一直線に走る被害者の眼は、街灯のほかに天体の輝きをも映し、生者の瞳よりも美しく輝いている。鎖を引きずったまま夜遊びに耽るぶちの犬が通りかかるが、そいつは血も舐めないで通り過ぎてしまう。

三階建ての黒いビルは夏の夜に溶けこみ、然るべき量で路面を占めてゆく血液はアスファルトに馴染んでいる。私の尖端は脳髄にまで達して、死者の呪わしい過去を吸い取りながら、蒸し暑い大気のなかへ放出している。差し迫った気配は遠のき、無音の稲妻の数も急速に減ってきている。犬のあとにやってきたのは、少年だ。彼は、月光を跳ね返して尚もぎらつく私に恐れをなしたものの、勇を鼓してこっちへ近づき、ぐっと近づいて揺れる体を私に映し、落鳥寸前の鳥のはばたきを真似る。
(7・22・土)

丸山健二×ガジェット通信

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