『千日の瑠璃』292日目——私は井戸だ。(丸山健二小説連載)
私は井戸だ。
如何なる日照りにも決して干ることがなく、これまでに農民の急を幾度か救った、ポンプ式の井戸だ。しかし、灌漑用の水路が完成してからの私はまったくといっていいほど顧みられず、今はただトウモロコシ畑の臍と化している。それでも、私を利用する者がまるでいないというわけではない。たとえば、ときどき山を下りてくる離れ猿がそうだ。そいつは私の扱い方を心得ているばかりか、私が汲みあげる水のよき理解者でもある。
人間で私を使用するのは、頭でっかちで、どんな猿にも負けないくらい恐ろしい、親とは似ても似つかぬ面貌の少年世一だ。けれども世一は、離れ猿のようにしては私と接しない。蒸し暑い油照りの日でも、私をおもちゃにするばかりで、水を飲んだためしは一度もない。世一は私につかまってへたへたと坐りこみ、あるいは、力なげにうなだれ、あるいはまた、のっそりと立ち上がる。それだけだ。
そしてきょう両者は、山奥に独り隠棲する人間によく似たけものと、精神にまで異常を来しているという誤解を受け易い、猿に似た人間は、私のところで出くわした。共存は絶対にあり得ないと思ったが、実際にはそうではなかった。世一はポンプを煽り、猿は旨い水をたっぷりと飲んだ。そのあと両者は互いに道化てみせ、猿は人間らしく、人間は猿らしく振る舞ってみせてから別れ、すぐにまた己れの立場へ戻り、己れの領域へ身を引いた。
(7・19・水)
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