『千日の瑠璃』279日目——私は黴だ。(丸山健二小説連載)
私は黴だ。
長雨と高温、それに若者が発散する汗のせいで、土蔵の内部をびっしりと埋め尽くした黴だ。私はまた、この土蔵を塒にしている若者の体のあちこちにも生えている。彼はきょうでまる二日のあいだ動いていないことになる。床にじかに横たわり、体中の関節という関節を折り曲げ、重く湿った心まで深々と折り曲げている。そうやって彼はありとあらゆるものを垂れ流しながら、じっとしている。
彼は死んでしまったわけではなく、死にたがっているわけでもない。また、病気などでもない。彼はただ働きたくなく、誰にも会いたくなく、飲み食いしたくなく、眠りたくもないというだけのことだ。彼は二日間ひとつところに寝そべって、もうひとりの自分とのあいだに生じた間隙を埋める努力もせずに、この世を激しく叩く雨の音に心耳を傾けて過した。今後の身の振り方について熟考を重ねたわけではなく、純一無雑の非合理主義に傾倒するわけでもなく、忍び寄る私に気づいても何の手も打たなかった。
そしてぎりぎりのところまで追いこまれた彼の正念は、とうとう主の意向を無視してむっくりと起きあがり、底力を発揮する。彼は這って土蔵の外へ出る。彼は泥の上に仰向けになってすべての関節をいっぱいに伸ばし、口を開けて酸性雨を飲み、ミミズのように体をくねらせる。泥が私をこすり落とし、雨が泥を洗い流し、オオルリの声が雨を浄化する。
(7・6・木)
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