『千日の瑠璃』264日目——私は麦だ。(丸山健二小説連載)
私は麦だ。
国の政を執る者たちに米はもう充分だと言われて、やむなく作られた麦だ。手を抜くだけ抜いて作られた私だが、それにしては実によく育ち、今は黄金色の輝きで以て周囲の緑を圧倒している。私の真ん中に立って腕組みをしているのは、出来のわるい案山子ではなく、また、案山子同然の人間でもない。私を作った分別盛りのこの男、時の為政者のいい加減さに懲り懲りしているはずなのに、まだ農業に希望をつないでいる。
男は私の穂をしごいてひと粒を口へ放りこみ、そっと噛み砕く。そして、抜き差しならぬ己れの立場を思い知る。無性に腹が立った彼は、東の空へ向って呪の言葉を浴びせかける。その場限りの答弁を繰り返し、言を左右にすることなど何とも思わず、最後まで鉄面皮を押し通す政治家や官僚、かれら如き鼠輩に気が遠くなるほど長いあいだ従ってきた自身を、彼は深く恥じ入る。あるいは、私をもっときちんと育てなかったことや、あるいはまた、依然として恥を知らね仲間が大勢いることも併せて恥じる。だが、遅過ぎた。
私はさわさわと吹く風の力を借りて、彼にこう言う。恥じるだけなら恥じないほうがましだ、と。すると農夫は足早に立ち去る。そのあとにやってきた少年は、難病に冒された肉体を私に投げ出し、病気故に研ぎ澄まされた精神を私に委ねる。彼は湖の波の力を借りて、米ではない己れを恥じよ、と私に言う。猿ではない己れを恥じよ、と私は言い返す。
(6・21・水)
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