『千日の瑠璃』255日目——私は馬だ。(丸山健二小説連載)

 

私は馬だ。

事ここに至るまで知らなかったのは不覚だが、まるで犬や猫のように棄てられてしまった、乗馬用の馬だ。どんな事情があったのか、飼い主は私をいきなりトラックへ押しこみ、夜通し走って今朝早くこの湖に到着すると、あたりに人の眼がないことを充分確かめてから、私を放した。本当はもっと木深い山か、広々とした牧場のようなところへ置き去りにしたかったらしいのだが、捜し回っているうちに夜が明け、やむなくここにしたのだ。

私無しの人生などあり得ないとまで言ってくれた飼い主は、一度も振り返らないで去って行った。私のほうもあとを追ったりはしなかった。私は波打ち際で冷たい水を飲み、岸辺に生えている甘くて香りのいい草をよく味わって食んだ。人気はまるでなく、聞えるのは鳥のさえずりと羽音ばかりだった。

しばらくして、巡邏の警官が近くを通った。だが、私の落着きぶりに何の不審も抱かず、自転車に乗って行ってしまった。それから私は松林を出て、湖岸に沿った、実に感じのいい小道を歩いた。私はまだ己れの立場をほとんど理解していなかった。行先についてもはや誰の示教を仰がなくてもいいこと、これからは万事がわが方寸にあること、それを知らなかった。角を曲ったところで私は、突風になびく草に似た少年と出くわした。彼はさっきの警官と同様、私に一瞥をくれて通り過ぎたが、引き返してきて山の方を指差した。
(6・12・月)

丸山健二×ガジェット通信

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