『千日の瑠璃』212日目——私はジュースだ。(丸山健二小説連載)

 

私はジュースだ。

交通刑務所を出てまほろ町の家へ戻った女が急に好きになった、甘ったるいジュースだ。今や彼女と私の関係は、さながら大酒呑みと酒のそれだった。彼女は片時も私を手放せなくなり、一日に少なくとも二リットルほど飲まないことには安らかな眠りに就けなかった。しかし、どんなに愛飲されても、私は彼女の心の創痕を癒やしてやれなかった。飲めば飲むだけ彼女の気鬱質は酷くなるばかりで、その境地はというと、天が下に住む家がない者とほとんど大差はなかった。

彼女は、昼のあいだはもちろん、夜になっても外出しなかった。夫がいくら熱心に誘っても、玄関から先へは行かなかった。そのせいで、近所ではあれこれ取り沙汰されていた。自動車を見ただけで口から泡を吹いて卒倒するとか、狭いところでしか暮らせなくなったのだとか、被害者の亡霊に責め呵まれているとか、そんな蔭口を叩かれていた。それでも彼女の夫は笑みを絶やさず、会社勤めと買物の両方をこなす多事の日々を送っていた。

そしてきょう、彼は妻の幼馴染みを家に連れてきた。全身で居直っているその女は、古い友人に向って「なによ、それくらいのことで」と言い、蛸のようにしか動けない子どもを抱えて頑張っている自身の身の上を涙ながらに語った。だが、効き目はまったくなかった。旧友が呆れて帰ると、不幸な女は私に言った。「人殺しがどう頑張ればいいのよ」
(4・30・日)

丸山健二×ガジェット通信

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